大谷吉継と言えば、石田三成との友情や重い病気を患っていたことがよく知られていますが、これらに加え、文武ともに優れた名将であった事も見逃せない一面です。

武将、軍人として、あるいは奉行としての吉継の能力はどういったものだったのでしょうか。


この記事では、大谷吉継の能力を、奉行および武将としての両面から見ていきたいと思います。

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大谷吉継の奉行としての能力、活躍について


大谷吉継は、非常に有能な奉行であったと言われています。
秀吉をして「100万の軍勢を自由に指揮させてみたい」と言わしめたとする逸話がありますが、吉継が単なる猪武者でないことをよく現しています。


秀吉の政権下では、文治派として石田三成らとともに豊臣家の屋台骨を支えました。

例えば、天正14年~15年の九州平定では、石田三成や長束正家らとともに兵糧奉行に任じられ、30万人の兵糧米と軍馬2万疋の飼料それぞれ1年分の出納や輸送を担当し、ほとんどミスなく処理しています。パソコンも電話もない時代ですから、まさに驚愕の事務処理です。

堺政所の奉行に石田三成が任じられると、その補佐役となり、堺を掌握するとともに兵站基地としての整備を進めます。また、自身ものちに奉行の任に当たりました。後年、江戸時代には堺奉行が置かれますが、これは堺そのものの都市機能もさることながら、秀吉政権下での堺運営の成功の証左でもあるといえるでしょう。

※参照:大谷吉継の家紋について。鷹の羽に込められた意味とは?


文禄元年に開始された朝鮮出兵においては船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを担当しました。同年6月には石田三成・増田長盛らと共に渡海し、諸将の指導と戦況報告を行います。

明との和平交渉でも、明の使者を連れ添い一時帰国し、名護屋城で秀吉と使者との面会を実現させるなど、行政官僚としての実績には目を見張るものがあります。

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大谷吉継の武将としての能力、活躍について


大谷吉継は、また勇猛な武将であったとされています。

秀吉に仕えてからというもの、しばらく馬廻りを勤めていましたが、天正11年の賎ヶ岳の戦いでは、七本槍に劣らぬ活躍を見せます。
天正13年には紀州攻めに参加し「根来寺焼討太田責細記」によれば、頑として抵抗する杉本荒法師を槍で突き伏せたとされています。


そしてなんといっても、吉継の武勇は、関ヶ原の合戦によって極まったといえます。

関ヶ原の西南、山中村の藤川台に陣取った大谷吉継隊5700は、開戦の朝から、東軍の藤堂高虎、京極高知隊を相手に奮戦します。

正午過ぎ、松尾山に布陣していた西軍・小早川秀秋隊15000が東軍に寝返ります。
松尾山を駆け下り大谷吉継隊の右翼に突撃する小早川隊に対し、吉継は備えの兵600をもって迎撃し、一時は松尾山の麓まで小早川隊を押し返したといいます。

しかしその直後、脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱の約4000の兵が一斉に東軍に寝返り、大谷隊は潰乱。混乱の中、吉継は戦場で自刃し果てます。

※参照:大谷吉継の病気はいつから?刀や関ヶ原での名言について!


大谷吉継は、この時代、唯一無二のバランス感覚を持っていたと考えられます。秀吉亡き後の天下を、おそらく徳川が継承するのが至当と思っていたのに違いありません。
実際、吉継は、家康軍に合流するため敦賀を出発し、三成の佐和山へ立ち寄ったのは、両者の和解を仲介をしようとしたからだ、との見方があるからです。文武智勇のバランスのとれた、吉継らしい考えです。

しかし、家康を不倶戴天の仇とみなす三成を前に、おそらく別の感覚が吉継を覆ったに違いなく、それは三成への友誼と病身である己の命数とのバランス感覚だったのだろうと思われます。

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この記事のまとめ


大谷吉継の奉行、および武将としての能力やその活躍についてご紹介しました。

小田原征伐や朝鮮出兵といった秀吉の戦が進んだのは、吉継ら奉行の陰ながらの支えがあったのでしょう。
また、武将としても優れた才覚を持つ吉継は徳川家康とも親しかったと言われ、吉継が関ヶ原の戦いで西軍についた事を聞いた家康は非常にあわてたという逸話が残されているほどです。


そんな大谷吉継の妻について、以下の記事でご紹介しているので、興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:大谷吉継の妻の名前とは?