豊臣秀長と言えば、兄の秀吉を信長の家臣時代から支えた人物として知られています。時には兄による強引な政策を調整することで、その政治を巧みに治めていた事で知られています。

そんな豊臣秀長ですが、妻や子供はいたのでしょうか?

この記事では「豊臣秀長の家族」というテーマで、秀長の妻や子供、そして養子の豊臣秀保という人物についてご紹介したいと思います。

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豊臣秀長の妻・慈雲院とは何者か?


秀長の正妻は慈雲院(じうんいん)です(「智雲院」とも表記されます)。

出自と結婚の経緯

慈雲院の出自については研究者によって諸説あります。歴史研究家の和田裕弘氏は、尾張神戸氏の神戸伝左衛門秀好の娘である可能性を指摘しており、織田信長の直臣と縁のある家柄と推定されています。

婚姻時期については、研究者の柴裕之氏は永禄10年(1567年)頃、黒田基樹氏は永禄9年(1566年)頃と推定しています。これは秀長が織田信長の直臣として仕えていた時期にあたります。

また、秀長の妻としてはこの慈雲院と他に側室が1人いたという事しか伝わっていません。この側室は秀長の墓の隣に眠っている「養春院古仙慶寿大姉」という女性で、正式な名前はわかっていません。一説ではかつて織田信長の側室であったとも言われています。

大和時代の慈雲院

天正13年(1585年)、秀長が大和国・郡山城に入城した際、慈雲院も同行しました。この時期には秀長の母・大政所(秀吉の母でもある)と共に春日大社への参詣を行ったことが記録されています。

また、徳川家康毛利輝元といった有力大名が秀長を訪問した際の交際記録も残っており、正妻として大和豊臣家の外交面を支えていたことがうかがえます。

秀長の死後、慈雲院はどう生きたか

天正19年(1591年)に秀長が51歳で没すると、慈雲院は「大和大方様」と呼ばれるようになりました。

その後、養子の秀保も1595年に17歳で急死し、慈雲院は夫と後継者を相次いで失います。それでも彼女はたくましく生き続け、江戸時代に入ると徳川幕府から2,000石の知行を安堵されました。かつての豊臣家の縁者に対してこれほどの待遇が与えられたのは異例のことで、慈雲院の人物的な評価の高さを示しています。

慈雲院は元和6年(1620年)に死去。秀長の没後、実に30年近くを生き抜きました。

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豊臣秀長の子供たち── 三人三様の運命


秀長には3名の子供がいましたが、その運命はそれぞれ大きく異なりました。

長男・与一郎:最も早く散った命

慈雲院との間に授かった長男の与一郎は、秀長の嫡男として大和豊臣家の後継者に期待されていました。しかし天正10年(1582年)の本能寺の変の頃までに早世しており、詳しい没年や死因は記録に残っていません。

与一郎が生きていれば秀保を養子に迎える必要もなく、大和豊臣家の歴史は大きく変わっていたでしょう。

長女・大善院:豊臣秀保と婚約する

側室との間に授かった長女の大善院は、秀長の養子・豊臣秀保と婚約していました。父の血を引く娘と養子を結びつけることで、大和豊臣家の家督を安定させようとした秀長の意図があったと考えられます。

しかし1595年、婚約者の秀保がわずか17歳で急死。大善院はそのまま歴史の表舞台から姿を消し、その後の生涯は記録がほぼ残っていません。(一説では1604年に亡くなったとも)

大善院が産まれたのは1587年頃だと考えられているので、彼女はわずか8歳で未亡人になったという事になります。8歳の未亡人って…

次女・おきく:毛利秀元に嫁ぐ

三人の子供の中で最も記録が残っているのが次女のおきくです。(ただし生母は不明)

おきくは1587年頃の生まれとされ、大和郡山城で育ちました。秀長の死後は伯父・豊臣秀吉の養女として迎えられ、1595年(8〜9歳頃)に毛利秀元に嫁ぎました。毛利秀元は毛利輝元の養子であり、当時の有力大名の一人です。

おきくは慶長14年(1609年)に23〜24歳で没しています。幼くして大名家に嫁ぎ、若くして亡くなった生涯でした。

秀元はその後、1613年に家康の養女である浄明院を継室としています。おきくの死後4年間結婚しなかった事を踏まえると、秀元はおきくの事を大切にしていたのかなと感じます。

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養子・豊臣秀保の謎の死と大和豊臣家の終焉


息子に先立たれた秀長が、養子として迎えたのが豊臣秀保(とよとみひでやす)です。
2021年に推理作家の獅子宮敏彦(ししぐう としひこ)さんが出版された「豊臣探偵奇譚」という小説では、秀保が主人公として描かれてますね。

姉の子供(甥)を養子に迎える


秀保は1579年に生まれました。実の父は三好吉房、母親は秀長の姉であるとも(日秀尼)という人物です。この夫婦の間には秀保の他に羽柴秀勝、そしてあの関白・豊臣秀次という3人の子供を授かっているのですが、この3人の子供はいずれも弟の養子になっているのですね。

※参照:豊臣秀次の「4人の父親」とは?実の母親やその子孫について!

豊臣秀保は1591年、秀長の長女・大善院と結婚して秀長の養子となり、秀長の死後、その跡を継ぎ大和郡山城主となっています。
その際、秀長の重臣であった藤堂高虎と桑山重晴を後見人としており、名護屋城の普請や朝鮮出兵にも参加しています。

また、秀保は「豊臣一門」であったためか、その出世も著しいものでした。

1588年にはわずか9歳で侍従に任命されており、92年には父の跡を継いで中納言になっています。大名としての格は徳川家康の次に位置しており、兄の秀次が関白に就任した後は豊臣一門の筆頭でもありました。

他にも秀吉は朝鮮出兵の後に明を征服した後に秀保を日本の関白にするといった構想があったようで、この時期の豊臣政権で秀保がいかに重要な位置を占めていたのかが分かる気がします。

秀長の死後は大和・紀伊・和泉の3か国、約100万石を引き継ぎ、16歳で大和中納言に任じられています。

「無双の悪人」の真相

一部の記録では秀保は「無双の悪人」と呼ばれ、暴君として記されています。しかしこの評価には注意が必要です。

秀保が死去したのはわずか17歳。政治家として評価されるには短すぎる生涯であり、研究者の桑田忠親氏は江戸時代の記録にある劇的な逸話を「単なる風説・俗説の類い」と指摘しています。豊臣家に批判的な江戸時代に誇張された可能性が高く、実態は不明な点が多いです。

秀保の死因:病死説が有力

豊臣一門の実力者としての階段を上り始めた秀保でしたが、1595年4月に病気療養のため大和・十津川へ湯治に向かい、わずか17歳で死去しています。

秀保の死後、大和大納言といわれた豊臣秀長の家系は断絶しました。

当時の一次史料である『駒井日記』には、秀保が疱瘡(天然痘)か麻疹を患っていたと記されており、現在では病死説が最も有力です。江戸時代の書物に記された「溺死説」などの劇的な話は後世の創作と見られています。

秀保の死後の大和豊臣家100万石の行方

秀保が子女のないまま急死したことで、大和豊臣家は後継者を失います。

もう一人の養子だった仙丸(後の藤堂高吉)はすでに藤堂高虎の養子となっていたため、大和豊臣家を継ぐことができませんでした。

秀吉は当初、甥の豊臣秀次の息子に大和豊臣家を継がせる計画を立てていました。しかし同年(1595年)、秀次が秀吉に謀反の疑いをかけられ切腹させられる「秀次事件」が勃発。この計画は幻に終わり、大和豊臣家は正式に断絶となりました。

100万石の所領は豊臣本家に回収され、郡山城には増田長盛が入城。こうして秀長・秀保と2代にわたって築いた大和豊臣家は、わずか4年で歴史から消えたのです。

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まとめ


今回は、豊臣秀長の家族というテーマで、妻の智雲院や3人の実の子供、そして養子の豊臣秀保についてご紹介しました。

このように、秀長は兄の秀吉と同じく後継者に恵まれず、甥の豊臣秀保と養子縁組をすることで大和豊臣家の家名を守ろうとしています。しかし、そんな秀長の願いも虚しく秀保も若くして亡くなっています。秀吉にしても秀長にしても天下に名を馳せた名将たちも名を継いでいくのには苦労が多いと実感せざるを得ませんね。


そんな秀長ですが、藤堂高虎や中井正清といった、築城に優れた人物を配下に召し抱えた事でも知られています。
以下の記事では「豊臣秀長ゆかりの城」というテーマを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:豊臣秀長ゆかりの城について解説。竹田城、郡山城、和歌山城