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社会科で日本の歴史について学んでいくと、さまざまな人物が登場します。

なかでも、聖徳太子は知名度ナンバーワンではないでしょうか? 

まだ日本が国として十分に整っていなかった時代、聖徳太子は仏教を取り入れたり役人の制度や心得を示したりして、国の基盤づくりに貢献しました。 

聖徳太子はどのような人だったのでしょうか。

年表や十七条憲法の中身とともに、小学生向きにまとめてみました。
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聖徳太子ってどんな人?小学生にもわかるように解説!


まずは聖徳太子がどんな人だったのかを、簡単に見てみましょう。

聖徳太子は574年に生まれた、今から約1500年前の政治家です。母が馬小屋の前を通ったときに産まれそうになったことから「厩戸王(うまやどおう)」とも呼ばれています。

実は、聖徳太子という名前は、飛鳥時代よりも後の時代になってつけられた呼び名であり、生きていたころの名前は「厩戸王」だったと言われています。
(このページでは「聖徳太子」で統一します)

聖徳太子は推古天皇の摂政(天皇の政治を助ける役)として、大臣の蘇我馬子と協力して政治を行い、冠位十二階や十七条憲法をつくり、天皇を中心とした国づくりをめざしました。

また、小野妹子を「遣隋使」として隋の国(この時代、中国大陸にあった国)へ送り、隋の進んだ制度や文化を学ばせました。

仏教を信仰し、現在の大阪府に四天王寺(してんのうじ)、現在の奈良県に法隆寺(ほうりゅうじ)を建て、仏教を日本に広めたという業績も残しています。

太子によって建てられた四天王寺や法隆寺は、「飛鳥文化(あすかぶんか)」の代表例として、よく歴史の教科書でも解説されてますね。

※参照:飛鳥文化、白鳳文化、天平文化の違いをわかりやすく解説!

聖徳太子の年表を小学生向けに解説!


ここでは、聖徳太子の年表を、小学生でわかるようにご紹介します。

西暦年齢出来事
5740用明天皇(ようめいてんのう)の第二皇子として生まれる。
58511父の用明天皇が天皇になる。
58713用明天皇が亡くなる。
次の天皇の位をめぐり、蘇我馬子と物部守屋が争う。
聖徳太子は蘇我馬子とともに物部守屋をほろぼす。
崇峻天皇が即位するが、天皇と蘇我馬子が対立する。
59218崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺される。
59319聖徳太子のおばにあたる推古天皇が即位する。
聖徳太子は摂政として蘇我馬子とともに天皇を助ける。
現在の大阪府に四天王寺(してんのうじ)を建てる。
59420仏教興隆の詔(仏教を盛んにして国を安定させることを宣言する)を出す。
60127現在の奈良県に斑鳩宮(いかるがのみや)を建てる。
60329冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定める。
60430十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定する。
60733小野妹子を遣隋使(けんずいし)として中国におくる。
斑鳩宮のとなりに法隆寺(ほうりゅうじ)を建てる。
61541三経義疏(さんぎょうぎしょ)というお経の解説書を完成させる。
62046蘇我馬子と協力して歴史書(国記、天皇記)をつくる。
62248聖徳太子が亡くなる。


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聖徳太子はおばにあたる推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法などを制定し、多くの政治をおこないました。

また、お隣の中国に遣隋使をつかわしたり、仏教の普及に力を尽くして様々なお寺をたてています。

ここからは、聖徳太子が制定した十七条憲法について見ていきましょう。

聖徳太子がさだめた十七条憲法を小学生向けに解説!


聖徳太子が定めた「十七条憲法」には、役人や豪族が守るべき道徳が示されています。

十七条憲法は、有名な「和を以て貴しと為し」などといった17条の項目から成ります。
その一部をご紹介します。


・和を大切なものとし、争いが起こらないようにせよ。
・仏、法(=仏の教え)、僧を大切にせよ。
・王の命令には必ず従え。
・自分のことばかり考えず、国の仕事に専念するのは役人のあるべき姿である。
・国の工事などで民を集めて働かせるときは、その時期を考えよ。
(農業などで忙しいときはやめよ)
・ものごとは一人で判断せず、みんなで議論して結論を出せ。



この中には、今でも通用するものもたくさんありますね。


聖徳太子が生きた時代は、天皇の位をめぐって争いがおこるなど、安定した世の中とはいえませんでした。

そこで聖徳太子は、仏教の考えを取り入れ、天皇のもとで役人たちがしっかり働くことで平和な世の中にしようと考えたのです。

そこで太子が定めたのが「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」です。

この制度は、役人たちが家柄ではなく、能力にあわせて仕事につけるように定めたものでした。役人の位を12に分け、それぞれ仕事で着る服の色が決められていたと言われています。

聖徳太子はこれ以外にも、中国や朝鮮半島の人々を通じて中国大陸の進んだ文化や制度についての情報を手に入れ、これらの国に負けないことを目指して政治を行ったのです。

遣隋使(けんずいし)として小野妹子などを派遣したのも進んだ文化や制度を学ばせるためですが、同時に、隋の皇帝に日本(聖徳太子の時代はまだ「日本」という呼び方ではなく、「倭」と呼んでいました)と国交をするように求める目的もありました。

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この記事のまとめ


聖徳太子ってどんな人?」というテーマで、年表や十七条憲法などを小学生の方向けにご紹介しました。

仏教の教えを取り入れ、天皇中心の国づくりを目指した聖徳太子には「10人が話すことを一度に聞くことができた」「2歳で念仏を唱えた」などの伝説も残されています。

そもそも「聖徳太子」と呼ばれるようになったのは亡くなったあとのこと。いかに人々から慕われ、尊敬されていたかがわかりますね。