新元号「令和」の典拠として、大伴旅人(おおとも の たびと)が呼んだ万葉集の歌に注目が集まってますね。

では、この大伴旅人とは、どのような人物だったのでしょうか。

今回は、大伴旅人について、政治家や大将軍としての業績、および同姓の大伴家持との関係を踏まえ、ご紹介します。

スポンサードリンク

大伴旅人についてわかりやすくご紹介


大伴旅人(おおとも の たびと)は飛鳥〜奈良時代にかけての人物です。665年に生まれ731年に67歳でなくなりました。当時の基準からすると、比較的長生きだった人物ではないかと思われます。

父親は大伴安麻呂(おおとも の やすまろ)という人物で、大納言を務めた他、歌人としても知られ、息子同様歌は万葉集にも採録されています。旅人自身も、父親の庇護があったのか順調に出世を重ね、711年には従四位下、そして724年には聖武天皇の即位に伴い、正三位に任命されています。

ところで、新元号「令和」の発表では、大伴旅人の名前の他に、「太宰府(だざいふ)」という名称も話題になりましたよね。これは旅人が728年、九州地方の政治の統括や、大陸からの防衛などの任務を担っている太宰府の長官(大宰帥=だざいのそち、と言います)に任命され、今の福岡県太宰府市に赴任した事がきっかけとなっています。なお、旅人は歌人としても知られている人物ですが、その歌の多くが、この太宰府にいた時に詠まれたものだと言われています。

730年頃、旅人は帰京します。背景としては、当時の大納言であった多治比池守(たじひ の いけもり)がなくなり、高位の大臣が不足したことが挙げられるようです。太宰府のトップや、後述する大将軍としての事績といった経験を買われたのか、旅人は同年11月大納言に、翌年の正月において従二位に任じられました。

しかし、旅人は既に67歳。老いには勝てなかったのか病気にかかり、同年7月になくなります。

スポンサードリンク

大将軍だった!? 大伴旅人の軍事面での事績とは


政治家として多くの業績を残した大伴旅人ですが、武将としての事績も伝わります。詳しく見ていきましょう。

720年、大隅国(今の鹿児島県東部)で隼人(はやと)と呼ばれる人々がヤマト王権に反乱を起こす事件が勃発します。この事件に対し、朝廷は同年3月、旅人を征隼人持節大将軍(じせつだいしょうぐん)に任命し、鎮圧にあたらせました。思い起こせば、大将軍という官職、日本史ではあまり馴染みが無い気がします。

5月に大隅国にわたった旅人は、陣営を敷き、1ヶ月ほどで隼人たちを追い詰めていきます。しかしこの年の8月、朝廷で絶大的な権力を誇っていた藤原不比等がなくなった事から、旅人は京へ戻る事を余儀なくされます。反乱は完全に鎮圧された訳ではなかったので、大隅国に部下を残しての帰京でした。

旅人個人の武将としてのエピソードは特に残されている訳ではないのですが、与えられた任務をそつなくこなす辺り、大将軍としての使命を無事に果たしたと言えるのではないかと思います。

スポンサードリンク

大伴旅人と「中納言家持」こと大伴家持の関係とは?


大伴旅人と言えば、同じ大伴姓の大伴家持(おおとも の やかもち)が思い浮かぶ方もいるのではないでしょうか。小倉百人一首で「中納言家持」として歌が挙げられている他、「令和」の典拠となった万葉集を編纂した事でも知られています。

旅人と家持。この二人は実の親子にあたります。718年頃に生まれたとされる家持は、父・旅人が太宰府に赴任する際に一緒に着いて行く事になりました。おそらく10歳頃だったと思われます。しかし、大伴親子が太宰府に赴いて間もなく、旅人の妻がなくなってしまう事態がおこります。多感な時期にお母さんをなくした家持。とてもショックだったのではないかと思います。

旅人は息子の教育を、妹の大伴坂上郎女(おおとも の さかのうえのいらつめ)に託しました。(名前が覚えにくいですね…)坂上郎女も、旅人や家持と共に歌人として知られ、万葉集にも歌がいくつか残されています。旅人の父親である大伴安麻呂も歌人として知られています。歌人一家ですね(笑)

※参考:古事記、日本書紀、風土記、万葉集、懐風藻の違いとは?

家持も父と同様、順調に出世を重ねますが、762年に発覚した藤原仲麻呂への暗殺計画に関わったとされ、薩摩守(今の鹿児島県西部)へ左遷されてしまいます。その後許され、最終的には従三位中納言に昇り、785年になくなりました。

しかし、家持はこの年に勃発した藤原種継の暗殺事件に関わっていたとされ、その罰として埋葬を許されず、官籍から除名される事となってしまいます。この頃から、朝廷では藤原氏の勢力がより強くなり、大伴氏は次第に朝廷から退けられていく事になるのです…。

スポンサードリンク

まとめ


大伴旅人がどのような人物だったのかを、大将軍としての業績や、大伴家持との関係も踏まえご紹介しました。

今回の新元号の発表において歌人として注目された旅人ですが、政治家や大将軍としての事績を持つ人物です。太宰府の長官である大宰帥を務めた事でも知られており、この頃に呼んだ歌が万葉集に多く収録されています。

また、小倉百人一首で有名な中納言家持こと大伴家持とは親子の関係にあたります。旅人の父親や妹を含め、大伴氏は一族に歌人が沢山いた事でも知られています。今後、新元号発表のニュースや万葉集がクローズアップされる中で、大伴旅人についての報道が増えてくるかもしれませんね。