北条早雲(伊勢宗瑞)を祖として小田原を中心に繁栄し、武田家や上杉家、徳川家とも互角に戦った後北条氏

1590年に行われた豊臣秀吉による小田原征伐によって戦国大名家としての後北条氏は滅亡しました。

しかし、この戦いを生き延びた後北条氏のその後や子孫の繁栄状況、現在も続いているのか?など、気になる点がいっぱいありますよね。

そこで後北条氏のその後を追うとともに、その末裔ついても解説してみたいと思います。

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後北条氏の主要人物のその後:許された人物もいる


秀吉の小田原征伐によって、後北条氏の当主・氏直は助命される一方、先代当主・氏政は切腹の沙汰を受けています。

その後の氏直はどうなったのか。

氏政の弟である北条氏照、氏邦、氏規兄弟のその後も気になりますね。

あわせて、2016年の大河ドラマ『真田丸』に登場してたことで有名になった板部岡江雪斎についても見ていきましょう。

北条氏直と板部岡江雪斎のその後


後北条氏のその後を考えるにあたり、まずは北条氏直と板部岡江雪斎に注目してみましょう。

この2名は北条氏政と比較すると穏健派であり、豊臣方と和解の道を探っています。


小田原征伐がおこると小田原城に篭城した北条氏直ですが、最終的には豊臣方に降伏しました。このとき、氏直は自らが切腹するかわりに部下の命を助けるように秀吉に嘆願しています。秀吉は氏直のこの願いに感じ入り、また氏直が徳川家康の婿であったことから、高野山に蟄居を命じます。この点は主戦派の氏政や氏照が切腹をしたことと比較すると、かなり寛大な処置であったと言えますね。

その後、北条氏直は1591年に秀吉から許され、河内と関東に合わせて1万石を与えられます。
しかし、同年に天然痘にかかり、わずか30歳の若さで亡くなりました。

※参照:北条氏直の系図がすごい理由とは?人物像や評価にも迫る!


一方の板部岡江雪斎は北条氏に3代に渡って仕えた重臣で、北条氏の外交官的役割を担っていました。1589年には沼田問題解決と北条氏政上洛の調整のための使者として秀吉のもとを訪れています。この時、江雪斎は秀吉からその才能を気に入られたようで、小田原征伐後は秀吉の御伽衆として活躍するとともに、名を岡野と改めます。

秀吉の死後、板部岡江雪斎は息子が徳川家康に仕えていたことを縁に家康に接近し、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋に東軍に寝返るよう説得にあたりました。その後も家康に仕え、1609年に亡くなっています。

これを見ると、板部岡江雪斎は外交的手腕を武器に、上手に戦国の世を渡り歩いたという事になりそうですね。小田原征伐に対して穏健的立場であった氏直と江雪斎のその後とは、共に秀吉によって優遇された点が共通しており、江雪斎は秀吉・家康と天下人のもとを渡り歩いたことが特徴と言えるでしょう。

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北条氏照、北条氏邦、北条氏規のその後


では、北条氏政の弟である北条氏照、氏邦、氏規兄弟のその後はどうなったのでしょうか。

まずは北条氏照ですが、氏照は豊臣方との徹底抗戦を主張し、居城である八王子城を重臣に守らせて自らは小田原城に篭城しましたが、秀吉の命で兄・氏政とともに切腹しています。

その弟である北条氏邦ですが、野戦を主張するものの受け入れられず、居城である鉢形城にこもって前田利家軍と戦いますがやむなく開城します。その後、氏邦は前田利家の嘆願によって切腹を回避し、剃髪して能登に1000石を与えられました。

また、北条氏規は豊臣政権の窓口として、板部岡江雪斎とともに和解の道を模索した事で知られています。しかしその努力は報われず、氏規は小田原征伐の際には韮山城にて篭城し、織田信雄率いる40000名を超える豊臣軍に対し3600名程度の兵士で戦いました。やむなく降伏した後は氏政・氏直にも降伏するように説得をしています。

戦後、氏規は甥の氏直とともに高野山に蟄居したものの、後に秀吉に赦免され河内7000石を与えられ、最終的には 1万石未満ではあるものの狭山城主に任じられています。


氏政の3人の弟のその後を比較すると、主戦派である氏照と氏邦は切腹・剃髪という処罰を受け、豊臣方との和解の道を模索した北条氏規のみが赦免される結果となっています。

3人のその後とは、秀吉に刃向かったのか否かが分かれ目になったと言えるでしょう。

※参照:小田原征伐おける徳川家康の行動や北条氏規との交渉について

後北条氏の末裔:子孫は狭山藩として存続


それでは、後北条氏の子孫はどうなったのでしょうか。

その末裔は狭山(さやま)藩主として、氏規が任じられた狭山を江戸時代を通して治め続けました。

以下で詳しくご紹介します。

狭山藩初代藩主:北条氏盛について

狭山藩の初代藩主は、氏規の息子である北条氏盛です。

後北条氏の5代目の当主である北条氏直には直系の息子がいなかったため、叔父である北条氏規の息子・北条氏盛が養子に入り、氏直の所領である下野4000石を相続しています。

やがて氏盛は、父・氏規が死去した際には河内7000石を相続しています。

氏盛はこうして合計11000石の大名となり、初代狭山藩主になりました。

氏盛は関ヶ原の戦いでは東軍の西尾吉次隊に従軍し、江戸幕府開幕後は徳川家に仕えています。

狭山藩のその後:維新後には子爵になる

氏盛の死後、狭山藩は12代に渡って北条氏が支配し、石高削減や財政難などの危機はあったものの明治維新を迎えるまで存続しています。

4代目・氏治の治世下では1万1000石の石高が1万石に削減されますが、5代目の氏朝は「藩祖・氏規の再来」と呼ばれる程聡明で、京都火消役や伏見奉行などに任じられる程、幕府からも高く評価されました。

また11代の氏燕(うじよし)は1854年、ロシアのプチャーチンの大坂来港時に警備を務めたり、藩校・簡文館を再興し、他藩の藩士の入学を認める等の事跡を残しています。

氏燕には子がいなかったので、譜代大名の堀田家から養子を迎えました。この人物が12代藩主となる北条氏恭です。

氏恭は鳥羽・伏見の戦いでは新政府側に味方し、維新後には狭山藩知事や明治天皇の侍従を務め、1884年には子爵に列せられました。

後北条氏は、北条早雲に始まる大大名家としての地位は失ったものの、その血脈は着実に受け継がれ、北条氏盛を筆頭に代々狭山藩主として約260年間に渡って所領を守り続けたのです。

秀吉という天下人と争いながらも、その家系を今に至るまでに維持している点に、後北条氏の強さやしたたかさを感じます。

北条家の現在:15代目の北条尚氏

北条家の子孫の方は現在もいるのでしょうか。

明治時代以降の北条家についても見ていきましょう。

北条氏恭の死後、北条家はは長男の謙吉氏が跡を継ぎますが1925年に死去。

その後は氏恭の四男である北条雋八氏が北条家を相続します。

北条雋八氏は皇室財産の管理を行う一方、日蓮正宗を信仰していた経緯から創価学会に入信。

戦後は学会経由で参議院議員に当選し2期務め、1974年に亡くなっています。

また、雋八の甥にあたる北条浩氏も公明党の参議院議員を1期務めました。

浩氏は1979年には創価学会の4代目会長に就任したものの、2年後に亡くなっています。

雋八氏の跡を継いだのは浩氏の弟にあたる15代目当主にあたります。

現在の北条家の当主は15代目の北条尚で、14代目の雋八氏に甥にあたる方です。

北条尚氏についてはネットでの情報はなく、どのような方なのかはわかりませんでした。

その他の北条家の末裔について


また、後北条氏の歴代当主の弟たちやその家臣団の子孫にも存続した者は多く、少なくない人々が旗本や各地の大名の家臣となっています。

一例として北条幻庵と北条綱成、千葉直重の家系を見ていきましょう。

北条幻庵の久野北条家:女系が紀伊と水戸徳川家に

北条早雲の3男、北条幻庵を祖とする久野北条家は幻庵の孫にあたる北条氏隆が1609年に死去した事で断絶しています。

一説には氏隆には智光院という娘がおり、この智光院は正木頼忠との間に女子を授かっています。

この女子はお万の方となり、後に徳川家康の側室となり紀州藩の祖・頼宣と水戸家の祖・頼房を産んでいます。

つまり、北条幻庵の子孫は女系を通して紀伊徳川家や水戸徳川家に引き継がれている…とも言えますね。

北条綱成の玉縄北条家:旗本として幕末まで存続

2代目・氏綱の娘婿である北条綱成の家系である玉縄北条家は、綱成の孫にあたる北条氏勝が家康に仕え、下総岩富1万石の大名になりました。

玉縄北条家は江戸時代初期に遠江掛川で3万石の大名になるも、氏勝の養子・氏重に男子がなく断絶となっています。

ただ、氏勝の弟にあたる繁広の嫡男・北条氏長は旗本となり、その家系は江戸時代を通して存続しました。

北条氏長は「北条流」という兵法を生み出した軍学者として知られており、その弟子としては「山鹿流」の祖である山鹿素行が有名です。

幕末に当主となった北条氏征の娘は、日本に西洋の砲術を普及させた江川英龍の妻になった事でも知られています。

氏直の弟・千葉直重:徳島藩に仕え伊勢に改姓する

北条氏政の子供で氏直の弟にあたる千葉直重は、氏直と共に高野山に蟄居するも1591年に兄と共に許されています。

その後、直重は蜂須賀家政に仕え、その子孫は徳島藩士として存続しました。

なお、直重の3代後の直武の代には、後北条氏が元々名乗っていた「伊勢」に改姓しています。

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この記事のまとめ


後北条氏のその後や末裔、現在の北条家の子孫の方について解説してきました。

まとめると、以下のようになります。

・後北条氏のその後は、和平派の北条氏直や氏規が赦され、後に所領が与えられた。
・氏規の跡を継いだ北条氏盛の代には狭山藩主となり、以後明治時代まで続いた。
・現在の北条家の当主は15代目の北条尚氏である。
・北条家の末裔の中には、旗本や各地の大名の家臣として生き残った者もいる。

小田原征伐で戦国大名としては滅亡した後北条氏。

しかし、その家系は養子を挟みながらも現在まで存続しています。

12代藩主が華族に列せられたことからも、後北条氏のその後は必ずしも不遇であったは言えないと思います。

むしろ氏盛以来所領を大きく減らすことなく家系を維持した点が評価でき、そこに北条氏の強さを見出すことが可能でしょう。