
古く美しい街並みが残る場所と言えばどこが思い浮かびますか?
京都や奈良の他に石川県の金沢市を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この石川県を中心とした地域は、かつて加賀百万石と言われる高い石高を誇る地域でした。
そして、加賀藩の礎を築いたのが戦国時代に活躍した前田利家です。
この記事では、前田利家について年表を交えてご紹介します。
また、利家の家紋や子孫の方についても見ていきましょう!
前田利家の年表をわかりやすく解説!
まずは前田利家の年表を、簡単に見ていきましょう!
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・1538年(0歳)
尾張国(現在の愛知県)で生まれる。
・1552年(14歳)
萱津の戦い(かやづの戦い)で初陣を飾る。
・1558年(20歳)
まつ(芳春院)を正室に迎える。
・1559年(21歳)
織田信長の側近、拾阿弥を惨殺して織田家を出奔する。
翌年の桶狭間の戦いでも活躍するが、帰参は認められなかった。
・1561年(23歳)
森部の戦いで活躍し、織田家に帰参する。
・1569年(31歳)
信長から前田家の家督を継ぐよう命じられる。
・1574年(36歳)
柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事する。
・1575年(37歳)
長篠の戦いに鉄砲奉行として参加する。
・1581年(43歳)
織田信長より能登一国を与えられる。
・1583年(45歳)
賤ヶ岳の戦いに柴田側として参加するも豊臣側に降伏し、転じて柴田勝家を自刃に追い詰める。
豊臣秀吉より加賀国二郡を加増される。
・1584年(46歳)
末森城の戦いで佐々成政に勝つ。
・1590年(52歳)
小田原合戦に上杉景勝、真田昌幸と共に上野国を攻略する。
※参照:小田原征伐の原因と真田昌幸の対応、その後の真田家の所領は?
・1598年(60歳)
嫡子・利長に家督を譲り隠居する。
豊臣秀吉より五大老の一人に命じられる。
・1599年(61歳)
豊臣秀頼の傅役(後見人)として大阪城に入る。
大阪にて病死する。
前田利家の年表について解説しました。
「槍の又左」と呼ばれるほど槍の名人であり、数多くの戦いで手柄を立てている前田利家ですが、若い頃は派手な服装をしていた「傾奇者」として知られていた事でも知られています。
その一方で、豊臣政権の重鎮として秀吉の天下取りを支え、晩年には五大老の一人、そして豊臣秀頼の後見人を任される程、利家は秀吉、そして諸大名から信頼されていました。
利家がもう少し長く生きていたら関ヶ原の戦いは勃発していたのか・・・という事を、歴史ファンの私はつい考えてしまいます(笑)
前田利家の家紋の由来は平安時代のあの人!
ところで、前田利家の家紋をご覧になったことはありますか?
前田利家を祖とする加賀前田家の家紋は「加賀梅鉢」という家紋です。家紋を見ていただくと分かるように、梅の花がモチーフになっています。

この梅鉢紋は、平安時代に活躍した菅原道真が梅の花を好んでいたことから、その後、菅原氏が使い始めたことに由来します。
では、なぜ前田氏が梅鉢紋を家紋としているのでしょうか?
それは、前田氏がその出自を菅原氏だと自称していたからなんですね。
先祖が菅原道真だと表すために梅鉢紋を使い始めたようです。
また、領地であった加賀地方が天神信仰が盛んだったため、統治のために天神様、つまりは菅原道真を象徴する梅鉢紋を利用したという説もあります。
※参照:菅原道真が学問の神様と呼ばれる理由は?その学力にも迫る!
前田利家の子孫は今なお顕在!
最後に、前田利家の子孫がどうなったのかを見ていきましょう。
前田利家には大変多くの子供がおり、その中でも利長、利常の二人は本家の加賀藩主になっています。加賀藩の系統は現代まで続いており、現在は全国石川県人会連合会の会長を務めている前田利祐(まえだ としやす)氏が18代目の当主を務めています。県人会の会長をなさっている事を踏まえると、石川県に対する前田家の影響はとても大きかったのだなと感じますね。
また、加賀藩3代目の藩主である利常は、息子たちに富山藩や大聖寺藩、更に現在の群馬県の一部にあたる七日市藩を与えており、それぞれの家系が現在まで続いています。これ以外にも加賀藩重臣へと続く血筋もあり、利家の子孫は北陸を中心に、日本全国で活躍していると言えそうですね。
また、前田利家は娘も多く、特に宇喜多秀家に嫁いだ豪姫は波乱に富んだ人生を送ったとされ、小説やドラマでも扱われる有名な女性です。宇喜多秀家にも子孫がいるのですが、彼の子孫はある意味利家の子孫と言えるかもしれませんね。
※参照:宇喜多秀家の関ヶ原での奮戦や八丈島での暮らしとは。子孫はいるの?
この記事のまとめ
前田利家の年表や家紋、あるいは子孫についてご紹介しました。
加賀百万石とも言われる大きな加賀藩の礎は、前田利家が織田信長や豊臣秀吉の下で活躍したことで築きあげられました。加賀藩は徳川将軍家とも度々婚姻関係を結んでいた事もあって、他の大名家には与えられなかった様々な待遇が与えられていました。
その前田家としての誇りが、家紋にも、その後続く家柄にもおのずと表れているのではないかと感じますね。
初めて投稿します。前田氏は美作菅家原田氏の支流とウイキペディアにありますが、支流としたのは美作菅家の捏造です。利家の父の画像に平朝臣とあるように。號は原田ですが平姓です。法然誕生の地にある誕生寺に、十八代原田三河守墓にもあるように平家です。號は原田ですが、平忠常の子孫です。「美作菅家の支流にあらず」 で検索されればご参考になると思います。書き始めたばかりですので投稿しご意見いただければ幸いです。尚、私の母は三十代原田の娘です。
利家のご子孫に連絡できればと思い、たどり着きました。宜しくお願い致します。
私の実家も梅鉢ですが、丸に梅鉢です。祖母や親戚からは、時が違えば私は大名の姫だったはず。と昔から言われていました。
何処かの戦で負け、家来と共に今の実家が有る山村に逃げてきた。との話も聞きました。 ちなみに、母寺は菅原です。
曹洞宗(禅宗)です。過去帖は有りますが、過去の系図が辿れない記録に成って居ます。
私の家は曾祖父の代から村長です。父は亡く成りましたが、村の代表でした。私は今、広島で本願寺派・教師(僧侶)です。
菩提寺;菅原姓で、曹洞宗です。小林 妙慧(Myoue)
家紋;丸に梅鉢です。代々村長です。
突然すみません平井と申します
僕はお婆ちゃんに小さい頃から
前田利家様の子孫だと教えられて来ました。信じたいことなのですがどうなのでしょう?
お婆ちゃんから聞いた話によると
家が破綻して何代目かの時に名字を売ったと聞きました
長文失礼します
●前田氏 ―Wikipediaに利家の系統が菅原姓を称するのは、 系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである。とあります。
◇結論から申せば前田侯爵所蔵の利家の父利春(利昌)の画像には平朝臣とあり、平氏なのです。以下、利家の出自である原田氏の系図を国会図書館アーカイブス・作陽誌中巻で25コマで検索。したものです。
□家系略伝 平忠高 桓武帝七代胤上総介平忠常五男住肥前原田因號原田次郎天喜五年春叙従五位下-任ニ肥後守-嘗助ニ源義家一
征ニ阿部貞任-康平二年出羽国杉谷戦中ニ流矢隕レ命 以下二十代忠佐までの略伝ですが、原田系図は原田氏に伝わっています。
※原田氏が美作に居城した経緯。と利家の始祖(原田系図)
◆平 忠沖ノ長男 四代 興方(?~1141)【従五位下・左右衛門尉】
嘉承二年(1107)父忠沖カラ家督(かとく)ヲ嗣(つ)ク 同年従五位下ニ叙セラレ左右衛門 尉ニ任ゼラル保安四年(1123)発(ミズノ)卯(トウ)二月藤原之仲時等ニ命ジテ 高科(タカシナ)師(モロ)春(ハル)ヲ殺ス君ハ此ノ事ヲ 咎(トガ)メテ原田ヲ美作ノ国葛(クズ)虫(ムシ)ニ配セラル
コレカラ此ノ地ヲ原田村トシタ 保延(11)五年(39)己(ツチノ)卯(トウ)年先ノ罪ヲ免ゼラレ五月ニ (己未ガ正シイ)
葛(クズ)虫庄(ムシショウ)ヲ給ワル同年 十一月ニ狐山下葛虫ニ住ム 稲荷山ト云ウノハ是山デアル永治元(1141)
年二月ニ死ス、弟ノ沖春日向守ハ 曽(カッ)テ肥前ノ国ニ住ンデイタ
★弟ノ沖春日向守が前田氏の始祖です。次に美作菅家の筆頭有元氏の系図について、
自分のルーツ探しも面白いですネ。私も興味深々ですが、所詮《驕れるものは久しからず、盛ん成る者も遂には衰える・・・娑婆世界の常です》諸行無常。なもあみだぶ妙慧(Myoue)
https://www.facebook.com/minnano.terakoya.nam/
私の母の性はまつの実家高畠家で、母方の祖父は白山市で一軒しかない写真館を営んでおりました。祖先をたどると、利家の妹昌姫とまつの甥の高畠定吉、当時舟岡城城主にたどり着きます。
家系図があるので確かです。宝勝寺の直系血族にあたります。