貼り付けた画像_2016_07_26_21_13

桶狭間の戦いで織田信長に敗れた事で知られる今川義元。
この義元には、「女戦国大名」と呼ばれた寿桂尼という母親がいた事も有名です。


公家から今川家に嫁ぎ、4代の今川家当主を支えた寿桂尼。
一体どんな人だったのでしょうか。


彼女が「女戦国大名」と呼ばれた理由、また夫の今川氏親についても詳しくご紹介します。
スポンサードリンク

寿桂尼ってどんな人?わかりやすく解説!


まずは寿桂尼がどんな人だったのかを、簡単に見ていきましょう。

寿桂尼は公家の中でも名門である中御門家(なかのみかどけ)の当主、権大納言中御門宣胤の娘として生まれ、位の高い公家の姫君として育ちました。
1508年頃に今川氏親に嫁いだ事から、1490年代頃に生まれたと考えられるでしょう。

嫁いだ今川家も、足利将軍家から一族のうちに数えられた吉良家の分家にあたり、気位の高い公家たちとも交流ができるほどの名門武家でした。公家の姫である寿桂尼が今川氏親に嫁ぐことで、今川家の公家文化への傾倒はいっそう深まったようです。

その後、今川氏親と寿桂尼の間には、3人の男の子が生まれます。
長男の今川氏輝、次男の彦五郎、そして三男の今川義元です。
今川義元といえば、あの桶狭間の戦いで新興勢力・織田信長の奇襲により滅ぼされるエピソードが有名ですよね。

※参照:今川義元の逸話を解説。むごい教育のエピソードの真相とは?


夫・氏親の没後、寿桂尼は14才という若さで当主となった長男・氏輝の後見役となりますが、この長男・氏輝、そして次男・彦五郎が相次いで若くして亡くなります。その後、跡継ぎ争いの内乱を経て、3男・今川義元が当主となり、1560年に義元が桶狭間の戦いで戦死したのちには、次の当主となった孫の今川氏真を支え、1568年にその長い生涯の幕を閉じます。

嫁入りの年令から推測すると、寿命はおよそ80才前後と推測できます。
戦国時代においては大変なご長寿ですね!

※参照:今川義元の評価を政治、外交、軍事面の3方向から考えてみた


寿桂尼は、長年にわたり今川家を支えたゴッドマザーだったと言えそうです。
この事から、寿桂尼は「女戦国大名」と呼ばれ、非常に大きな影響力を持っていました。

では、そのゴッドマザー寿桂尼の女戦国大名ぶりを詳しくみていきましょう!

寿桂尼が「女戦国大名」と呼ばれた理由とは?


寿桂尼が「女戦国大名」として今川家の政務に関わりはじめたのは、夫である今川氏親の補佐をした所からと言われています。公家の姫として育ち、十分な知性と教養を備えていたからこそ、病状にあった氏親の補佐もできたのかもしれませんね。

夫である今川氏親が病没して、息子の氏輝が跡を継ぐと、寿桂尼はわずか14才で今川家の当主となった氏輝の後見役として、今川家の政務を見るようになります。氏輝が16才になるまでの2年間は、寿桂尼は公文書に自分の印判を押して発行し、領国を治めました。

当時、男性の大名は自分の印判を用いて政務を行なっていましたが、女性が印判を持つことは珍しく、この寿桂尼の印判は嫁入りの時に、父・中御門宣胤から与えられたものではないか、と考えられています。このように、まるで男性の大名のように印判を用いて公文書をつくり、政務を行なったところから寿桂尼は「女戦国大名」の名で呼ばれるようになりました。

また、公家出身であるネットワークを生かして、甲斐の大名・武田晴信(のちの信玄)と公家の三条家の姫君の結婚の仲立ちをつとめたという説もあります。

氏輝の没後、三男・今川義元が当主となってからも、1550年には、武田信玄の嫡男・武田義信と今川義元の娘を結婚させたり、1554年には、相模の名門・北条家の姫君を今川義元の嫡男・氏真の正室として迎え、同じ年に、武田信玄の娘が北条氏政の正室となり、甲斐、相模、駿河の三国同盟が成立します。
これらの政略結婚のかげには寿桂尼の計らいがあったと言われています。

1560年、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に破れ、討ち死にすると、寿桂尼は跡を継いだ孫・氏真の後見として政治に関わりますが、やがて今川家は時代の波にのまれ、没落の道をたどります。1568年3月、寿桂尼は「死しても今川の守護たらん」と言い残し、天寿をまっとうしますが、その死からわずか9ヶ月後には、三国同盟も虚しく、武田信玄の駿河進攻が始まるのです…。

スポンサードリンク

寿桂尼の夫、今川氏親はどんな人だったのか?


最後に、寿桂尼の夫である今川氏親についてもご紹介します。

今川氏親は今川家の7代目の当主に当たる人物です。室町幕府の時代、足利将軍家の一族にかぞえられていた名門・今川家は、この氏親の時代に幕府と将軍家から正式に遠江守護に任命され、遠江の守護大名となりました。そして、氏親は領国となった遠江の支配を固めるために、1518年から検地をおこなったり、安倍金山を開発して、金の採掘も行いました。

今川氏親の業績として、今川氏の分国法(ぶんこくほう)である『今川仮名目録』の制定があります。この分国法を定めることによって守護大名から戦国大名の段階へと進み、室町幕府の力が弱まったのちも、今川家は戦国大名として存続していきます。

分国法とは、戦国時代に領主が領国内を治めるために制定した基本的な法令で、戦国大名としての体制を整えるためには、やらなくてはならない重要な仕事でした。
しかしこの時、氏親はすでに病床にあったため、寿桂尼が夫にかわって、側近たちとともにこの分国法をつくり、夫・氏親の名前で配布したのではないか、という説もあります。

室町幕府の下での守護大名から、乱世でも領国を守り抜く戦国大名へのステップアップを成し遂げたのが、今川氏親という人物の業績と言えそうですね。

また、氏親は公家出身の寿桂尼との結婚によって、京の朝廷とのつながりも強まり、公家の雅な文化を取り入れたと言われています。
氏親自身も和歌と連歌を好む、風流な一面をもつ戦国大名であったようです。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


寿桂尼がどんな人だったのかをご紹介しました。

公家から今川家に嫁いだ寿桂尼は、夫・今川氏親の時代から、孫・氏真の時代まで、今川家を守るために努め、80年の生涯をまっとうした「女戦国大名」と呼ばれた女性です。

室町時代から戦国時代という激動の時代を生きた寿桂尼。自分の持てる能力やネットワーク、あらゆる知恵をしぼって今川家の繁栄を支えた人物だと言えそうですね。


なお、以下の記事では戦国大名である今川氏最後の当主である今川氏真の評価について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:今川氏真の再評価の余地は?有能だった分野について!