大谷吉継と言えば、白頭巾で顔を隠した戦国武将というイメージを持たれている方は少なくないと思います。
患っていた病気が原因なのですが、では吉継はこの病気をいつから発症していたのでしょうか。
また、大谷吉継が用いていた刀やその名言など、吉継に関する雑学、豆知識をまとめてみました。
目次
大谷吉継は病気をいつから発症したの?
大谷吉継と言えば、頭を白い頭巾で隠しながら関ヶ原の戦いで腰に乗りながら奮戦している姿を思い浮かべる方が少なくないと思います。
彼は「業病」と呼ばれる、非常に治りにくい病気を若い頃から患っていました。
この業病は、いわゆる「ハンセン病」の事だと言われる傾向にあるようですが、実際には吉継がハンセン病だったのかは断定できる訳ではないようです。
少なくとも、ハンセン病は業病、つまり治療がほぼ困難な病気だったという事は間違いなく、また目を病んでいたという説も残されています。
では、大谷吉継はこの業病をいつから発症していたのでしょうか。
吉継が業病をいつ患ったのかを示す明確な資料は残されてはいないのですが、少なくとも1586年頃には病気が進んでいたと考えられています。
この年の正月、大阪では「千人斬り事件」という騒動が起こっていました。
毎晩ごとに人夫が殺されるという事件だったのですが、その犯人がなんと大谷吉継なのではないか、という噂が広まっていたのです。
その理由が、「人の血を舐めれば病が癒える」といったもの。
つまり大谷吉継が自身の病を治すために凶行に及んでいるのではないかという噂が、町の人々の間で広まっていた事になります。
結果として犯人は明らかにならず、吉継自身の疑いも晴れたのですが、裏を返せばこの事件は、1586年には吉継の病が世間一般に広まっていた事を示すエピソードとして見ることが出来ます。
この事を考えると、大谷吉継が病気を発症したのは1586年より前、1570年〜1580年前半と言えそうです。
ちなみに吉継は1565年(1559年説もあり)生まれなので、10代後半〜20代前半で大病を患っていた事になりますね。
大谷吉継が用いていた刀とは?
次に、大谷吉継が用いていた刀について解説します。
大谷吉継が用いていた刀でその名前が残っているものは2つあります。
1つ目は敦賀正宗(つるがまさむね)という刀で、吉継が越前(今の福井県)敦賀城主であった事からその名前が付けられたようです。
吉継の死後は、かつての彼に領地に入った結城秀康がこの敦賀正宗を入手したのですが、孫の代に改易されてしまい、その後は薩摩の島津家の所有になったそうです。
その後、敦賀正宗は昭和3年5月にオークションに出され、今ではその行方が分からないのだとか。
なので写真も残されていません。
また、大谷吉継が用いていた刀で写真が残っているものには庖丁藤四郎(ほうちょうとうしろう)という短刀があります。
※引用:http://sekigahara2015.com/
この刀は足利家が所有していたものを大谷吉継が貰い受け、彼の死後は徳川将軍家→尾張徳川家へと所有者が転々。
現在では徳川美術館に飾られています。
※参照:大谷吉継の奉行としての能力について。武将としての活躍にも迫る!
大谷吉継が関ヶ原の戦いで述べた名言について!
最後に、大谷吉継が関ヶ原の戦い、およびその前後で述べた名言を3つご紹介します。
大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す
この言葉は、大谷吉継が親友の石田三成に述べた名言として今でも伝わっています。
関ヶ原の戦いに備えるため、三成が居城の佐和山城を改修しようとした際にかけた言葉と伝わっています。
要するに、城を固めるより敵の陣地に砦を構えるべきであるということ。
そして本当に固まった城とは大将が持つ人望であり、人望がある人の所に天下は巡ってくるという意味になります。
2つ目の名言でも解説していますが、少なくとも吉継から見た三成は人望があり慕われるタイプには見えなかったのでしょう。
金のみで人は動くにあらず
この言葉も、吉継が三成に述べた名言として有名ですね。
関ヶ原の戦いを起こそうとする三成が吉継を味方に誘おうとした際、吉継はこの言葉を述べて三成を諭したと言われています。
つまり、お前(=石田三成)は利益(=地位や金品)によって人を動かすのは得意だけど、戦いにおいて人を動かすのは金ではなくて大将の能力と人望であり、この2つにおいてお前は家康より遥かに及ばないよ、ということを述べたかったのですね。
この忠告を受け入れたのか、三成は西軍の総大将に自身ではなく毛利輝元を据えるなどの工夫を行っているのですが、実際に輝元が西軍のために果敢に動いたのかというと、そうと言い切るのは難しい気がします。
その一方で、小早川秀秋に関白職を譲るといった「利」をちらつかせる行為も行っているのですが、この秀秋の裏切りが勝敗の行く末に影響を与えるとは、当時の三成は考えてもいなかったでしょう。
人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん
最後にご紹介するのはこちら。
その小早川秀秋の裏切りに対して、吉継が放った名言として知られています。
3年以内に呪ってやるぞ!と言いながら切腹した吉継。
その心境は非常に悔しい思いがあったのでしょう。
そしてこの言葉通り、秀秋は関ヶ原の戦いの2年後、なんと21歳にして急死しています。
その原因は、今で言うところのアルコール依存症による内臓疾患だと言われているのですが、当時の人々は吉継の祟りによって呪われた事が原因だったのではないか、と噂し合ったそうです。
確かに、21歳の若さで、しかも関ヶ原の戦いの2年後に亡くなった事を考えると、当時の人々がこのように噂し合うのは無理も無い気がしますね。
※参照:小早川秀秋の評価やその死因について。子孫は現在もいるの?
この記事のまとめ
・大谷吉継の病気はいつ発症したのか
・大谷吉継が用いていた2つの刀について
・大谷吉継の3つの名言について
この記事では、大谷吉継にまつわる3つの話題を取り上げてご紹介しました。
病気についてはある程度は知っていたのですが、刀については知らない事も多く、個人的には興味を持って書くことが出来ましたね。
また、大谷吉継は石田三成に色々と忠告はしているものの、最後にはこの親友のために戦うことを決意し、名誉ある最後を遂げているのですが、こうした一連のエピソードを考慮すると、吉継が優れた武将、人格者であると同時に、仮に病気を患っていなければどのような歩みを送ったのだろうか、といった事も考えてみたりもしました。
なお、以下の記事では大谷吉継の妻について解説しています。どのような女性なのか気になる方は、以下の記事を一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:大谷吉継の妻の名前とは?
[…] 出典大谷吉継の病気はいつから?刀や関ヶ原での名言について! | 歴史をわかりやすく解説!ヒストリーランド […]
ありがとうございます。ものすごく役に立ちました。
よかったですね。正直私も物凄く役に立ちました。もっといろんなこと知りたくなりました。
大谷吉継の小説を書くためにいろんな資料を読み漁っています。いろんな資料を読み漁るうちに吉継の人となりというものがどんどん具現化し固定していきます。そんななかで「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」というこのエピソードだけはどうも違和感を覚えます。吉継は勝敗がどちらの手に落ちても民衆に惨い政にはならないだろう(むしろ家康が勝利したほうが後の日の本の混乱は少ない)と洞察していたでしょう。吉継が三成に加勢したのはやはり友誼と自分の寿命にあったと思えます。やるからには最善の戦いを目指すでしょうが、必勝の信念には欠けていてこの戦に限っては《天が勝者を決める》と達観していた部分があったのではないか。秀秋の裏切りもなかば予想の内だったなかで、「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」と鬼の形相で言う吉継を想像できない。むしろ静かに目を閉じ家康による戦乱の無い太平の世を瞼に写し自らは総ての命数を使い果たしたことを知り潔く逝くのがこのひとらしい。「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」というのはたまたま秀秋が合戦から僅か2年で吉継に怯えながら若くして死んだから後世に書き加えられたのだと思いたい。ちなみに私は吉継の出生の地(諸説あり)長浜市余呉の庄に居を構えています。吉継に対して確信的贔屓者です。