日本の長い歴史の中には、多くの謎が未だに残されています。

日本史好きな方であれば、「この謎の真相は絶対に知りたい!」という話もあるでしょうし、その一方で「こんな話もあったんだ!」と思われるケースもあるかもしれませんね。

今回は、そんな日本の歴史の中に残された謎を5つ選んで解説してみました。
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日本の歴史の謎(その1)「聖徳太子の謎」


日本の歴史の謎でよく取り上げられる人物と言えば、まずこの聖徳太子が挙げられるのではないでしょうか。

教科書にも必ず登場する聖徳太子。「聖徳太子」という名の前は、「厩戸皇子(うまやとのみこ)」「厩戸王(うまやとおう)」と呼ばれていました。冠位十二階や十七条憲法の制定、法隆寺の建立など、数多くの業績で知られていますよね。また、1930年以降のお札に登場する事で、馴染みのある方もいるかもしれません。

しかし、近年では、この聖徳太子の存在自体が危ぶまれています。
正確に言えば、そのような疑惑は江戸時代の頃からあったそうです。

たとえば、そんなに優秀な人物なのに「日本書紀」以前の史料には、まったく登場しないことや、「日本書紀」と「法隆寺」に残されていた資料の聖徳太子に関する事柄の不一致。
時代的おかしい中国古典引用や、当時ではまだ使用されていなかった「天皇」の号などなど、疑惑を膨らませる点は数多く存在します。

けれど、実は「厩戸王」という存在は、史実として存在が確認されているそうです。
厩戸王は、用明天皇の皇子であり、斑鳩宮を造ってそこに住んでいました。
そして、その近隣に、斑鳩寺(法隆寺)を建立した人物だそうです。

それでは、なぜ聖徳太子という華々しい功績を残した人物が作られたかというと、それに対する推察としては、藤原不比等の名が挙げられています。
藤原不比等は、第41代天皇、持統天皇の時代の人物で、持統天皇の命を受けて、色々と政治的に活躍していた人物です。下級官人から、果ては右大臣まで上り詰めました。

そして、この藤原不比等は、持統天皇の命を受けて新たに「日本書紀」の編纂を行った人物でもあります。だからこそ、日本書紀は政治的な思惑から、藤原不比等によって聖徳太子のような人物を捏造したり、話をこじつけて記されているのではないか、と言われているのです。

しかし、その説に関しても、すべて検証し、解明された結果ではありません。
果たして、聖徳太子はいたのか、それとも架空の人物なのか。
残念ではありますが、未だ、その謎は解明されていないのです。

※参照:聖徳太子ってどんな人?年表や十七条憲法を小学生向けに解説

日本の歴史の謎(その2)「平将門の首塚の謎」


平将門の首塚は、東京駅の近く、オフィスビルが立ち並ぶ一角にあります。
ここには、京都で処刑された平将門の首が、この地に飛び戻ってきたことから首塚が造られたという伝説があります。

何故、この平将門の首塚に謎があるかというと、現代にまで続く「呪い」や「祟り」がまことしやかに伝えられているからです。京都の都大路で晒された首が、関東まで飛んで戻ってくるという伝説も不思議ですが、それ以上に、この首塚にまつわる怪異譚の方が尋常ではありません。

平将門の首塚を粗末に扱った事によって、不可解な事件が少なからず起きているのです。

たとえば、1923年。
関東大震災により大蔵省庁舎が全焼したため、首塚を発掘調査後、塚を破壊して埋め立て、その地に仮庁舎を建てました。すると数年後、当時の大蔵大臣であった早速氏が病死、それを皮切りに、この庁舎の建築に携わった十数名の職員が次々と不審な死を遂げます。
このことから、平将門の祟りだという噂が広がり、庁舎の一部を壊して首塚を再建することになったそうです。

さらに1940年には、落雷により大蔵省の庁舎が全焼。
落雷の場所は首塚の傍であり、奇しくも、その年は平将門の死後1000年目の年だったとか。
怨念説を抑えるためにも、鎮魂碑が建てられました。

そればかりか、1945年には、終戦後の占領軍が、その地にGHQ専用駐車場を造ろうと首塚を壊そうとしました。しかし、その作業中であったブルドーザーが横転、運転手が転落死したために工事は頓挫します。

そして、この祟りは現代にも受け継がれています。

首塚のある場所はオフィスビル街であり、首塚の周りには高いビルが建っています。
けれど、それらのビルは、全てではありませんが、首塚を見降ろさないよう首塚の方向には窓を配しないことや、首塚に面した部屋では、首塚に背を向けないようにレイアウトされているという都市伝説があるのです。

さらには、山手線が配備された背景には平将門の怨霊の力を削ぐためという逸話も存在します。

しかし、平将門は恐怖の対象というばかりではありません。
その人柄は人情に篤い人物だったそうで、礼を尽くした人物には礼を返す、快活で温かみのある人物であり、多くの人々に尊敬されていたそうです。

そのため、平将門の首塚を誠心誠意参拝した人には、ご利益があるともいわれています。

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日本の歴史の謎(その3)「本能寺の変の謎」


日本の歴史の謎の中でも、特に有名なのが「本能寺の変の謎」かと思います。
日本史ミステリーランキングなどの中でも、常に上位をキープする謎多き事例です。

第1に、何故、明智光秀は謀反を起こしたのか。
第2に、何故、慎重で警戒心の強かった織田信長が、討たれるリスクを起こしたのか。
第3に、何故、織田信長の遺体は発見されなかったのか。


特に、第1の謎に関しては「遺恨怨恨説」や「信長への恐怖説」「真の黒幕による陰謀説」などが挙げられます。しかし、そのどれもに確たる証拠もありませんし、決定的と為すには弱さも残します。

続いて第2の謎に関しては、「自作自演説」や「光秀を信頼し過ぎた油断説」などが挙げられますが、これまた決定打となる確証などは得られていません。
特に、本能寺の地下道に関しては、それを主軸としている説が小説などに多く見られることから、実際は元から無かったという説が有力です。

そして、最後の謎である、織田信長の遺体が見つからないというもの。
これに関しても、「爆死したため残らなかった説」や「本当は生きていた説」「秀吉による幽閉説」など、色々な推測がされています。

しかし、実際はどんな真実があろうと本能寺の変は起き、それによって天下人となるはずだった織田信長が死に、その有能な側近であった明智光秀が死にました。
そのことで、歴史は動き、新たな局面を迎えたのです。

いつか、本能寺の変の謎の真実が解明される日が来ることを、心から願ってやみません。

※参照:織田信長の性格の長所と短所とは?数々のエピソードを解説!

日本の歴史の謎(その4)「徳川埋蔵金の謎」


徳川埋蔵金」とは、江戸末期、討幕軍により、江戸城を明け渡すこととなった江戸幕府が、いつかの再興を願い、その資金として埋蔵金を隠したとされる話です。

しかし、それが謎となったのは、この埋蔵金が見つからなかったことから端を発しています。
先ず、討幕軍が江戸城に立ち入った際、金蔵が空だったことから、幕府が御用金どこかへ隠したと判断されました。そして討幕軍側は、その御用金を探すべく徹底的に調査を行います。
けれども、御用金は見つかりません。

そして、当時、幕府の財政責任者であった小栗忠順のみが斬首という刑に処せられました。
さらには、「赤城山の山中へ運び込むのを見た」という証言まで流れます。

そのため、赤城山の各所では埋蔵金探しが行われたとか。
そればかりか、数々の検証が成され、「赤城山ではなく久能山だ」という説や「日光山内」「榛名山や妙義山」という説、さらには「備前楯山だ」という説まで出てきました。

それは、現代に至るまでも受け継がれています。
多くのテレビ番組で取り上げられたこともあります。
それこそ、巨額の資金が投入されてきました。

しかし、「徳川埋蔵金」は、見つかりません。
すると、今度は「徳川埋蔵金架空説」まで飛び出してきました。
けれども、現在もその場所を特定しようと、数々の人々が研究や検証を続けています。

数々の謎を残しながら、未だ多くの人の心を惹き付ける「徳川埋蔵金の謎」。
日本史の謎の中でも、浪漫溢れる謎の一つです。

※参照:徳川御三家の現在とは。尾張・紀伊・水戸の末裔はどんな人?

日本の歴史の謎(その5)「グリコ・森永事件の謎」


近代の日本の歴史の中で、多くの謎に包まれた出来事と言えば「グリコ・森永事件」ではないでしょうか。事が起きたのは1984年。そして、その翌年にまたぐ一大事件へと発展しました。

1984年3月、江崎グリコの社長が自宅から誘拐され、その身代金を犯人側が要求。
その後、丸大食品や森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など全6社の食品企業を次々と脅迫。
その内容としては、狙われた企業が取り扱う商品に、青酸を混入させるというものでした。

そして、それらを防ぐ対価として、現金受け渡しを要求されるも、犯人は一度も受け渡し場所に現れませんでした。その後、犯人と思しき人物が何度か目撃されるも、逃亡されてしまい逮捕には至りませんでした。

犯行中、犯人側は「かい人21面相」と名乗り、警察やマスコミ関係者へ、揶揄するような挑発的な文章などを送り付けていました。
また、犯行を予告する電話などには、児童にを使ったり、受け渡し場所には脅迫された無関係の人間を使うなど、当時では想定外な手口を使っていたとされていて、それもまた逮捕への捜査をかく乱させていたといいます。

しかし、結局は犯人側は要求した金銭を受け取ることもなく、1985年8月12日、犯人側から送り付けられた「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」という文章の後、その活動などはぱったりと途絶えることとなりました。
実は同年8月7日、ハウス食品を狙った事件の際、不審車両を取り逃がした滋賀県警の本部長が、責任を感じて焼身自殺をしています。そして、殺人はしないというルールのもと、事件を起こしていた犯人側が、これをキッカケとして事件を収束させたのではないかという説があります。

けれど、その犯人たちは、結局逮捕されることなく、1994年に「江崎グリコ社長誘拐事件」が時効を迎え、2000年には「東京・愛知青酸入り菓子ばらまき殺人未遂事件」を始めとした、全28件の犯行が時効を迎えました。そして、この事件の捜査に関わった捜査員は、130万1千人に上り、捜査対象は12万5千人だともいわれているのです。

これだけの人々が追い掛けながらも、真実は闇の中に葬られ、それが解明されることなく、終末を迎えた「グリコ・森永事件」。
日本の歴史の中でも、これほど謎を残す事件は多くはありません。

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この記事のまとめ


今回は、独断と偏見により、日本の歴史の中にある謎を5つ選んでてご紹介してみました。
因みに、選んだ基準としては、謎を解き明かせそうなのに、未だ解決や解明に至っていないという不思議さを感じる度合いから選ばせていいただきました。

そして、今回ご紹介した謎の多くは、ある意味で歴史を変えてしまうほどの大事件です。
けれどそれは、未だ解明されていません。

そこにどんな真実があるのか。
隠され秘された真実に、とても興味は引かれます。
しかし、謎が謎のままだからこそ、今の歴史があるともいえるかもしれません。

勿論、長い歴史の中には、まだまだ秘められた謎の多くが存在します。
先ずは、こちらの謎を手始めとして、改めて日本の歴史の中に残された謎の世界を味わってみてはいかがでしょうか。