貼り付けた画像_2016_03_23_7_35
織田信長の性格って、実際はどんな感じだったのでしょうか?

私は子供の頃、ホトトギスの俳句や比叡山焼き討ちのエピソードから、短気で残忍な性格なのではないかと思ってました。

こうした信長の短所が印象に残ってる方は少なくはないと思うのですが、一方で信長にもいいところはあったはず。

今回は「信長の性格」をテーマに、信長の長所や悪いところに関するエピソードを解説します。
スポンサードリンク

信長の性格はどんな感じ?その長所を示すエピソードとは?


まず、信長の長所を示すエピソードから、彼の性格にまつわる逸話をご紹介します。

非常に寛大(ただし優秀な人物に限る)


信長の長所として挙げられるのは、「非常に寛大」というエピソードです。

例えば、柴田勝家や林秀貞といった、信長がかつて弟、信勝との家督争いを行っていた時期に信勝側についた人々を許したという点は、信長の長所を示すエピソードとしてよく語られています。

北陸戦線で秀吉が柴田勝家と仲違いして戦線を離脱した時も、その後の戦いで手柄を立てた事で不問にしています。

また、謀反人の代名詞としても知られる松永久秀に対しても、2度もその行為を許している事でも知られています。

ただし、林秀貞など、これと言って目立った働きがない家臣については後々追放するという事もありました。

信長の寛大さは、秀吉や柴田勝家、松永久秀といった、優れた武将でないとその恩恵を受けるのは厳しかったのかもしれません。

身分にとらわれない一面も


上の寛大な面と少し被りますが、信長は身分にとらわれない一面もありました。

まず家臣の登用に関して、足軽だった秀吉や忍者出身とも言われている滝川一益など、優秀な人材であれば身分に関係なく抜擢し、重く用いたエピソードは非常に有名です。

また、信長のいいところとして庶民と分け隔てなく接したというエピソードも挙げられます。

祭りの際は庶民と共に踊ることで人々を楽しませたり、安土城の内部を公開して武士、庶民を問わず大勢の人々を招き寄せたと言われています。

他にも障害者に対して木綿を与えてその世話をしたという話など、庶民に対する心配りを忘れなかったという逸話も、信長の長所を示していると言えますね。

この他にも、信長は相撲好きという一面があり、優勝した力士は氏素性にも関わらず家臣として召抱えたという逸話も残っています。

身分の差をあまり気にしない点は、信長の非常に大きな長所だと言ってもいいでしょう。

※参照:織田信長は大の相撲ファン?土俵を考案した説の真相とは!?

前例のない事を積極的に実践する


信長の長所と言えば、やはり誰もが思いつかない事を積極的に実践するという点が挙げられると思います。

桶狭間の戦いの奇襲攻撃や南蛮文化を受け入れる姿勢、長篠の戦いなど戦に鉄砲を持ち込んだエピソードは非常に有名ですよね。

他にも街道整備に関するエピソードも有名です。

当時、街道を整備するという事は他国に侵略されやすくなるという理由で、他の大名はあまり行っていませんでした。

一方、信長は関所の廃止や川に橋をかけるなどの街道整備を積極的に行います。

結果として人の行き来が盛んになり、経済が活性化する事で税収も増えたという好循環を引き起こす事に成功します。

こうしたエピソードから、信長は前例のない事を積極的に実践する性格であったと分かりますね。

信長の優しい一面を示す秀吉の妻・ねねへの手紙とは

信長のいいところとして、優しさを示すエピソードも残されています。

信長に仕えていた時期の秀吉は、子供ができない正室のねねに冷たかったり、浮気を繰り返していた時期がありました。

そんな夫との接し方に悩んだねねは信長に相談します。

すると信長はねねに対して、優しさに溢れた手紙を送ります。

そこにはこのように書かれていました。

この前お会いした時はいつにもまして綺麗でしたね。
藤吉郎(秀吉)の態度はもっての他。
彼があなた以上の女性を妻にできる訳がないのだから、もっと堂々としててもいいのです。
この手紙を秀吉に見せるように。

更にこの手紙はひらがなで書かれていました。

戦国時代を生きた人のうち、ひらがなを読める人は珍しくなかったものの、漢字を読める人はそう多くなかったと言われています。

こうした細かい所からも、信長の優しさを感じますね。

スポンサードリンク

悪いところも見逃せない!信長の短所にまつわるエピソードとは


人間の性格は、長所もあれば短所もあるものです。

信長にも当然ながら悪いところはあります。

信長の短所にまつわるエピソードも見てみましょう。

冷酷で使えない家臣に対しては厳しい一面も


信長の短所として真っ先に思い浮かべるのは、敵や有能でない家臣に対する厳しい態度ではないでしょうか。

鳴かぬなら殺してしまえ」の俳句に見られる通り、比叡山焼き討ちや一向一揆など仏教勢力に対する苛烈な処置は非常に有名です。

他にも、浅井長政や朝倉義景の頭蓋骨を家臣に見せたという残酷に見えるエピソードも、信長の短所を表す逸話として知られています。(これは両者への敬意の表れであるという説もあります)

また、はじめにも少し触れましたが、信長は使えない家臣については追放するなど厳しい一面もありました。

前述した林秀貞以外にも、家督争いから信長に一貫して味方し続けた佐久間信盛を手柄を立てていないという理由で追放するなど、人事については厳しい一面で接した事でも知られています。

自意識過剰で他人の意見を聞かない


また、信長の短所の1つとして自意識過剰であるという点が挙げられるかと思います。

当時の日本へ訪れていた宣教師、ルイス・フロイスによると、信長は「日本においては信長自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではない」と述べており、フロイスもこの言葉には非常に驚いたそうです。

他にも、信長は家臣の意見を聞かず、重要な事は自分で決断していた事でも知られています。

家臣の意見をいちいち聞く信長・・というのも想像しにくいですが、逆に家臣の意見に耳を傾けていれば、信長の人生や戦国時代の結末は、また別のものになっていたかもしれませんね。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


信長の性格について、長所や悪いところのエピソードをそれぞれご紹介しました。

この記事を書く過程で思ったのは、信長は非常に自信家だったのではという事です。

信長は自分の考え、および行う事が上手くいくという確信が持てる性格だったのでしょう。

だからこそ、当時多くの大名が出来なかった事が積極的に出来たのではと感じました。

ただ自信家である反面、他人への気配りといったものからは縁遠い短所を持っていたように感じます。

信長の寿命が60,70歳も続けば、この面が改善されたのかを考えるのも興味深いですね。

また、信長と言えば子供が20人以上いた事でも知られています。この点から、信長は非常に女性にモテるタイプだったのか、あるいは女好きという一面があったのでは?という事も想像してしまいます。

※関連記事:織田信長の子供は何人いたの?