貼り付けた画像_2016_08_04_23_17


晩年の豊臣政権は、五大老と五奉行の合議制によって運営されました。

中でも前者の五大老は、その名の通り5人の有力な大名によって構成されています。
その序列とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

そこで今回は、五大老の序列について説明するとともに、しばしば混同される五奉行との違いについても解説します。また、五大老に数えられる大名の次に力のあった大名は誰なのかについても考察してみました。
スポンサードリンク

五大老の序列について解説!


五大老には徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の5名が選出されました。
当初は小早川隆景を含めた6名の有力大名が選出されましたが、隆景は1597年に死去したため、通常五大老と言うと隆景を除く上記5名を指す事になります。

この5名の序列を考えるにあたり、秀吉死去当時の石高と官位に着目してみましょう。

徳川家康 256万石 正二位内大臣
前田利家 83万石 従二位(1597年まで大納言)
宇喜多秀家 57万石 従三位中納言
上杉景勝 120万石 従三位中納言
毛利輝元 120万石 従三位中納言


トップは官位・石高ともに群を抜いている徳川家康で間違いないでしょう。
家康は豊臣政権内部において大きな発言権を持っていたということですね。

2番目は官位が高い前田利家と言えそうです。利家は石高でこそ景勝、輝元に劣りますが、この5名の中では秀吉の信頼が最も篤く、その他の大名とは別格の扱いでした。
また、後の3名は官位での差がないため、石高や秀吉との関係から序列を考える必要があります。西国の大大名、関ヶ原の戦いで豊臣軍の総大将を務めた毛利輝元がふさわしいでしょう。

それでは、残りの2人の序列はどうだったのでしょうか。

諸説ありそうですが、名目上は宇喜多秀家が4番目に当たると考えていいでしょう。秀家は秀吉と猶子関係にあたり、豊臣家の一門衆と言っても過言ではない人物です。
一方の上杉景勝は石高や「上杉家」という家格において、実質的には秀家には勝ると考えてもよさそうですが、小早川隆景の死後に五大老になったという記載もあり、他の面々と比べると豊臣政権における影響力は小さかったのかもしれません。

スポンサードリンク

五大老と五奉行の違いとは?


五大老について考える際、しばしば似たような言葉である五奉行と混同してしまう事が少なからずあると思います。
この両者の違いは、一体どこにあるのでしょうか。

五大老の五奉行の違いは大きく2つあります。1つ目の違いは役割の差。五大老が政治を総攬する立場にあったのに対し、五奉行は豊臣政権における実務を担当しました。現代の政治機構に置き換えると、五大老が国務大臣の役割を担ったのに対し、五奉行は官僚のトップという立場にあたります。

もう1つの違いは秀吉との関係です。五大老が有力大名によって構成されたのに対し、五奉行は石田三成、増田長盛、名束正家、浅野長政、前田玄以という秀吉直属の家臣によって構成されました。つまり、五大老とは元々豊臣政権外にいた有力大名を豊臣政権内に組み込んだのに対し、五奉行は秀吉によって直接雇われた人物によって固められました。

秀吉はこのような体制を作ることにより、有力大名を豊臣政権に従わせるとともに、実務は優秀な直属家臣によって担わせようとしたのです。

五大老の次に力を持っていた大名とは?


前述したように、五大老とは大大名家によって構成されました。
では、五大老にこそ選ばれなかったものの、それに匹敵する力を持っていた大名に当てはまるのは一体誰なのでしょうか。

考えられるポイントをいくつかご紹介します。

スポンサードリンク


実は1599年に、かつて秀吉と養子関係にあった家康の次男である結城秀康を五大老に加えようという案が持ちだされていました。ただ、秀康は「秀吉の元養子」「五大老筆頭である家康の実子」という経歴を持っていたものの、石高はわずか11万石程度である事から、五大老に匹敵する権力はなかったと考えられます。

むしろ注目すべきは「豊臣政権の六大将」と呼ばれる大名たちでしょう。豊臣政権の六大将には五大老に選出された徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝の他、島津義久佐竹義宣の2名が選ばれていました。島津は九州の有力大名であり、秀吉に臣従した後も薩摩を中心に約56万石を所持していました。佐竹義宣は秀吉から羽柴姓を与えられるほど寵愛されるとともに、常陸水戸を中心に約55万石の領地を有していました。

これらのことから、五大老の次に力を持っていたのは島津義久と佐竹義宣と言うことができるでしょう。特に佐竹義宣は秀吉が天下統一を進める過程で早い段階で接近しており、豊臣政権下でも家康に対する抑えとして秀吉から期待されていたと言われています。


余談ですが、こうした大名と同等の石高を持つ大名には伊達政宗の名前が挙げられます。しかし、秀吉に臣従した時期がこれらの大名に比べ遅かった事や、葛西大崎一揆を扇動したため、政宗は秀吉から領土の一部を没収されています。石高と秀吉との距離の近さを踏まえると、豊臣政権下で五大老の次に力を持っていたのは佐竹義宣と考えられるのではないでしょうか。

※参照:伊達政宗の小田原合戦への参陣。伊達家と北条家の関係は?

この記事のまとめ


五大老について、序列や五奉行との違いについて説明してきました。

五大老の中では徳川家康が官位・石高ともに群を抜いており、名実ともにトップの位置にありました。家康の後は前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝と続きます。五大老以下の大名家では、島津義久や佐竹義宣、伊達政宗が広大な領国を有しており、中でも秀吉に近い佐竹義宣は五大老に次ぐ大名だとも考えられます。

有力大名で構成される五大老が政治を総攬するのに対し、秀吉直属家臣で構成される五奉行は政務を実行する立場にありました。五大老と五奉行は一見するとうまくできた政治機構に見えますが、秀吉の死後わずか2年余りで崩壊してしまいます。豊臣政権内における権力者を知ることで、なぜ豊臣政権が崩壊したのかよりわかりやすくなるのではないでしょうか。


なお、以下の記事では秀吉が家康らに残した遺言について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:家康が秀吉に臣従した訳は?その関係や遺された遺言について