豊臣秀吉が関東の一大勢力である北条家を討伐するため小田原合戦を引き起こします。
そして、かつて北条家との同盟を結んでおり、態度を明らかにしていない伊達政宗も小田原合戦に巻き込まれていきます。

そして北条家を滅ぼした秀吉は、その目を伊達政宗に向け、奥州仕置を行うのですが…


この記事では、伊達政宗と小田原合戦前後の一連の動きを紹介します。

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秀吉への対抗をあきらめた?伊達政宗の小田原合戦への参陣


豊臣秀吉は、小田原合戦の際に伊達政宗に参戦するように促す書状を送っていましたが、政宗はすぐに応じませんでした。

なぜなら伊達家と北条家は、政宗の父親である伊達輝宗の時代から同盟関係にあり、政宗自身も北条氏とともに秀吉と戦うか、あるいは秀吉に臣従するかを迷っていたからです。


その後も、秀吉から伊達政宗のもとに小田原合戦に参戦するようにとの催促が何度も行われてており、最終的には五奉行の浅野長政の説得で、政宗は1590年5月9日に会津を出立し、小田原へと向かいました。
その場で正宗は秀吉の兵力を目の当たりにし、北条家との同盟を破棄し、秀吉側につきました。

当時の伊達家と北条家の関係は決して悪くはなかったのですが、政宗にとっては北条家との関係に拘るより、秀吉に対抗できないと判断したことが参戦のきっかけになったのではと個人的に思います。

その際、政宗は「千利休から茶の手ほどきを受けたい」と述べており、秀吉を感嘆させたと言われています。

※参照:秀吉と小田原攻め。一夜城や源頼朝像との対話、宇都宮仕置とは?

北条家と伊達家の同盟に近い関係を終わらせたのは…?


伊達家は、伊達政宗の父である伊達輝宗のころに北条家と同盟に近い関係を築いています。

輝宗は、先代の伊達晴宗と同様、会津の蘆名氏との同盟関係を保ちつつ、その一方で各地の勢力と外交政策を積極的に進めました。その一環として織田信長に鷹を送ったり、また家臣の遠藤基信に命じ、北条氏政や柴田勝家とのやり取りを指示しています。

これ以外には、上杉謙信の死後勃発した御館の乱において、北条との同盟関係から上杉景勝側を攻め立てており、越後での支配を広げようとした事もありました。


しかし、輝宗から政宗へと代替わりすると、伊達家は上杉氏と急接近します。
先代の政策からの大幅な戦略変更により、輝宗が南奥州で築いた外交関係は崩れていく事になります。

個人的には、上杉氏という共通の目標が失われた事によって、政宗の時代の北条家との同盟は、薄れていったと考えています。

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秀吉による奥州仕置の魔の手は伊達政宗にも・・・


小田原合戦時、当時の伊達家は150万石近い大領国を築いていました。

しかし合戦終了後、政宗の領地は以下の2つの理由によって、秀吉により陸奥出羽の13郡と約半分の72万石に減封されました。

・小田原合戦に遅参したこと
・大名同士の戦を禁じた惣無事令に違反したこと

(蘆名氏を破った摺上原の戦い)


また同時に、小田原合戦に参陣しなかった葛西晴信や大崎義隆らが改易される一方、小田原合戦に参陣した、あるいは以前から秀吉と親交があった最上義光、相馬義胤、戸沢盛安、南部信直、津軽為信らは所領を安堵されています。
この他、秀吉の家臣である蒲生氏郷が、かつて政宗が支配していた会津と転封しています。

こうした秀吉による東北諸大名の領土の没収、および一連の所領安堵を「奥州仕置」と呼びます。


その一方で、政宗は秀吉に抵抗し続けます。

秀吉による奥州仕置に反発した葛西晴信・大崎義隆らの旧臣が「葛西大崎一揆」を起こすと、政宗はこれを鎮圧する一方で、一揆が発生するよう扇動したと言われています。その裏には、一揆を意図的に引き起こし、これを自分が鎮圧することで手柄を立て、葛西、大崎領を自分のものにしようとする政宗の思惑があったと言われています。

しかし政宗の思惑は秀吉には筒抜けだったのでしょうか。一揆の鎮圧後、結果として政宗は葛西、大崎領を与えられるものの、伊達家が200年間支配し続けてきた土地を奪われ、最終的な所領は19郡余58万石となりました。
おまけに当時の葛西、大崎領は荒廃がひどく、政宗が受けた経済的損失も減封分以上のものだったようです。

政宗が与えられた領土が肥沃な土地になり、仙台藩の石高が実質100万石を越えるのには、大坂の陣の後である1626年を待たなければいけません。

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この記事のまとめ


伊達家は北条家と同盟に近い関係だった事もあり、小田原合戦に参陣するか否か、政宗は最後まで決めかねていたようです。
その一方で、政宗の父、輝宗の方針転換によって、伊達家と北条家の間は微妙なものになっていたのも確かでした。

また、政宗は小田原合戦に参陣してある程度は所領を安堵されるも、奥州仕置や葛西大崎一揆を経て、大きな経済的損失を被ることいなります。
秀吉が日本をほぼ統一していた時期だったので、勢力格差があり、あまり対抗できなかった伊達政宗は、少々気の毒ですね。


なお、以下の記事では「伊達政宗は過大評価されているのではないか」という説について検証しています。思い当たる節があれば、一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:伊達政宗の凄さって何だったの?過大評価の真相に迫る!