豊臣秀吉の天下統一における最終段階である小田原攻め。武力だけでなく、相手の戦意を喪失させたという一夜城の築城には、トリックがありました。また、秀吉の行動は、源頼朝を模倣するものがありました。それは、宇都宮仕置です。

今回は、一夜城のエピソードや秀吉と頼朝、その踏襲した行動を紹介します。

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石垣山一夜城に隠された「ある仕掛け」とは?


豊臣秀吉が、小田原攻めの際に築城したのが、石垣山一夜城であり、これは関東において初の総石垣の城でした。北条側は、城が突如現れ、戦闘意欲をなくしたとされていますが、実際には一夜で完成していません。

ある仕掛け」をしたことで、あたかも城が一日で作られたかのように見せかけたのです。

石垣山一夜城のトリックを説明します。

秀吉は、築城する場所を山にし、林の中で骨組みを作り、白紙を張って壁にみせかけました。その後で一夜で周りの森林を伐採したことで、一夜で城が現れたという仕組みになっています。
建築にあたっては、約4万人が作業にあたり、80日もの日数がかかっています。

※参照:豊臣秀吉ゆかりの城まとめ!建築や城攻めなど解説してみた

つまり、城をはじめから準備しておき、周りから見えるようにしただけでした。
しかし、天下統一を目前に控えた秀吉であれば、一夜で城ができてしまうと北条側も考えてしまったのでは、と思います。

石垣山一夜城ができたのは6月26日。
秀吉はこの城で宴を催したり天皇の勅使を迎えたりしています。

一方、一夜城の完成によって徹底抗戦か、それとも和睦かで揺れていた北条側は戦意を喪失してしまい、7月5日の氏直の降伏とその後の小田原城の開城へと繋がっていく事となります。

なお、石垣山一夜城は現在、石垣山一夜城歴史公園として観光スポットにもなっています。

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豊臣秀吉と源頼朝は、わかり合える親友同士?


豊臣秀吉は、小田原攻めを終え天下統一を遂げた後、ある場所に足を運びました。それは、鶴岡八幡宮境内社にある白旗神社です。
目的は、源頼朝に会うためです。厳密には、源頼朝の像ですね。

源頼朝像を前にして、秀吉は次のような言葉を語りかけています。

我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。

簡単にまとめると、僕たちは、天下取ったけど、庶民から天下取った僕(秀吉)の方がすごいでしょ。でも君とは天下取ったもの同士分かち合えるね。といった具合です。
そう言うと、頼朝像の背中をポンポン叩いたとされています。

※参照:源頼朝のプロフィールや年表を小学生向けにわかりやすく解説

また、秀吉が源頼朝を意識した行動はもう1つあります。

それは秀吉が死去する直前、源頼朝が1193年に行った「富士の巻狩り」を髣髴させる大規模な巻狩り(狩猟のこと)にならい、尾張国で大規模な巻狩りを行った事です。
イエズス会の宣教師・ルイス・フロイスは、この秀吉による巻狩りを「頼朝の巻狩りに対する人々の印象を弱めること」と分析しています。

少なくとも、秀吉にとって頼朝は同じ天下人として、強く意識すべき存在だったのでしょう。

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天下統一の仕上げ!宇都宮仕置とは?


小田原攻めを終えた後、豊臣秀吉は、関東・奥州の領主に対する戦後処置を行いました。

この一連の流れが宇都宮仕置ですが、源頼朝が宇都宮大明神に奉幣し、奥州を支配したことを模倣しています。秀吉は、前例を踏襲することで、権威を示そうとしたのですね。鎌倉を出発した7月19日まで同じでした。そしてこの秀吉の宇都宮の滞在は、合計で20日間にもおよんでいました。

その際、徳川家康の次男である結城秀康を結城家の養子とする事が行われてます。
また、南部信直や伊達政宗、佐竹義宣ら奥州や関東の有力大名に対して本領安堵を保証する朱印状を与えたりもしているのですが、この事は後の奥州仕置の方針が、すでに決まっていたと考えられる一因となっています。

以下の記事では秀吉の奥州仕置の内容を伊達政宗の視点から解説しています。この仕置は政宗にとってかなり過酷な内容だったのですが・・・詳しくは以下の記事をご覧下さい。

※参照:伊達政宗の小田原合戦への参陣。奥州仕置とは?

また、宇都宮は「天下統一の最後の場所」として、当時からふさわしい場所と言われてきました。
宇都宮の別名は、下野国一宮名神大社河内郡二荒山神社であり、この場所に始祖は、崇神天皇の皇子である豊城入彦命であるからです。

ただ個人的には、秀吉が宇都宮の地を選んだのは、始祖が豊城入彦命である土地というよりも、源頼朝の行動を模倣するためという理由が強いと考えています。

この記事のまとめ


この記事では、小田原攻めに関する豊臣秀吉の行動やエピソードをご紹介しました。

小田原攻めの際の一夜城築城は、秀吉ならではのアイデアであり、北条側もまんまとはまってしまいました。豊臣秀吉と源頼朝は、時代は違うけれども、同じ立場であったからこそわかりあえる部分があったのかもしれません。秀吉は、自らの権威を示すために、宇都宮仕置の際に頼朝と同じ行動をとっています。

先人のやり方を模倣し、最後まで抜け目なく行動している秀吉は、天下を取るべくして取ったのだなと感じますね。