豊臣秀吉にとって、徳川家康の存在は気が気でならなかったのだと思います。
最終的には家康を臣従させる事に成功した秀吉でしたが、本心では彼の事をどう思っていたのでしょうか。

秀吉が家康に残した遺言の内容なども踏まえながら、2人の関係について考えてみました。

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徳川家康が豊臣秀吉に臣従した理由とその背景について


本能寺の変で織田信長が亡くなった後、主君の仇とばかりに謀反を起こした張本人・明智光秀を討ち取った羽柴秀吉ことのちの豊臣秀吉でした。
徳川家康も明智討伐に向かったのですが、間に合いませんでした…

その後、信長の仇討ちを果たした秀吉が織田政権を担い台頭する形になります。

1584年の小牧・長久手の戦いでは家康は局地戦にて勝利を収めるも、家康抜きで織田信雄と和睦を結んだり、家康の次男、結城秀康を人質として貰い受けるなど、大局的には秀吉側が優勢の状態でした。越中の佐々成政や紀伊の雑賀衆、四国の長宗我部元親などを服属させ、更には関白に就任するなど、その勢いは留まることを知りません…。

一方、当時の家康は心穏やかではなかったはずです。
沼田城の帰属問題で真田昌幸ともめ、差し向けた討伐軍も昌幸の前に敗北。家臣団は秀吉と戦うか和睦するかで対立状態にあり、1585年には筆頭家老である石川数正が突然出奔し、徳川家の軍事機密は秀吉に筒抜け状態。おまけに領国で地震が発生したり家康自身も腫れ物で苦しむなど、秀吉と戦うどころの状態ではなかったのだと思います。

※参照:石川数正が出奔した理由とは?考えられる5つの原因まとめ!


しかし家康はこの段階ではまだ秀吉に臣従する意思はありませんでした。、困った秀吉は実妹の朝日姫を正室として徳川家に嫁がせ実母(大政所)も事実上人質として送ります。なぜなら秀吉は家康の臣従なくして天下統一はできないと分かっていたからです。
さすがの家康も折れ、上洛を決意します。

家康が秀吉と会見をする前夜に実はこんなやり取りがありました。

明日に備えて秀吉の弟、秀長の屋敷に泊まっていた家康のもとに、なんとアポなしで秀吉がやってきました!

秀吉はなんと家康に頭を下げるのです…
卑しい身分の自分に心底忠義を尽くしている臣下は少ない。それでも自分は信長公の御遺志を引き継ぎこの戦乱の世を終わらせたい。でもそれには家康公のお力が必要である。明日の会見で自分に向かって臣従の礼を執ってはもらえないだろうか?どうか信長公の盟友であったあなた様にはご理解していただきたい!」と言ったのでした。

家康が臣従すれば、家臣たちも納得するでしょうということですね!


一方の家康も「名誉ある敗者」になれば後々得になるでしょうから快く快諾。翌日秀吉の着ていた陣羽織を拝借し「この家康が配下になったからには関白殿下様には二度とこの陣羽織は着させません」とオーバーぎみに会見を演出。

「この家康が臣従したからこそ豊臣は天下をとれたのだ!」
今後のために強調したかったのでしょう。

後に「狸親父」と呼ばれるだけあって、腹の中では色々な事を考えていたのでしょうね(笑)

秀吉は実際、家康の事をどう思っていたのか?


こうして秀吉の臣下になった家康ですが、秀吉は家康の事をどう思っていたのでしょうか。

豊臣秀吉と徳川家康。
この二人の心情を表す具体的なエピソードはあまり残されていません。

しかし、秀吉からすれば実際に敗北させた訳ではない家康は、かなり警戒すべき存在だったのではないでしょうか。小田原征伐後、家康は秀吉から三河など五ヶ国を没収される代わりに関東8カ国を与えられてますが、これは秀吉が家康を北条家の残党が多数潜んでいる関東に封じ込める事で、徳川家の勢力を弱めようとする狙いがあったのだという説があります。

その一方で、秀吉からすれば、自分と互角に戦った家康に対する尊敬の面もあったのではないかと個人的には思います。百姓出身の秀吉からしたら、生まれながらの大名で戦の技術も自分より上。更にはかつての主君、信長が信頼を置いていた人物となると、脅威でもあり疎ましい存在でもあったのではないでしょうか。

だからこそ、秀吉は自分の妹や母親を人質に出してまで家康をその影響下に置こうとしたのでしょう。下手に出ていた秀吉ですが、腹の中では屈辱にまみれていたのかもしれませんね。

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秀吉が家康にのこした遺言の内容とは?


その一方で、秀吉は家康の事を頼りにしていた面があったのだとも思います。

小田原征伐や奥州仕置、秀次事件の鎮静化など、秀吉が政権運営を進める上で家康に頼る部分は少なくなかったのだと思います。また、家康は1596年に内大臣に任命されているのですが、この任官には秀吉の後押しがあったようで、彼が秀吉から頼りにされていた一面が伺えます。

※参照:小田原征伐おける徳川家康の行動や北条氏規との交渉について


そして秀吉が家康に最も頼りたいと思ったのは、何と言っても我が子秀頼の行く末でしょう。


秀吉は、1598年に死去する前から、家康ら五大老、石田三成ら五奉行に遺言を2度も残すようになります。その五大老に向けての遺言は「信頼している五大老衆に秀頼のことをとにかく頼みます。この他には思い残すことはありません。この世を去ることが名残惜しくてたまりません…しつこいようですが、なにとぞ五大老衆、秀頼のことを頼みます」というものでした。

秀頼本人のことも心配はしていたと思いますが、転じて豊臣家の行く末を一番案じていたことがこの遺言からよく分かりますよね…


そして秀吉は家康に対して、秀頼が成人するまでの後見人を任せています。

この事が「家康=五大老筆頭」と諸大名が考えるようになり、後の関ヶ原の戦いで秀吉子飼いの武将を味方につけた要因になった気もするのですが、後の大坂の陣のことを考えると、この秀吉の決断はあまり好ましいものではなかった気がしますね…

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この記事のまとめ


徳川家康豊臣秀吉に局地的に勝利したものの、当時の情勢や秀吉からの再三の要請によってやむなく臣従します。秀吉は家康の事を優れた武将だと思っていたのでしょうが、腹の底では何を考えているか分からない家康に恐怖や疑心の念も抱いていた気もします。

その一方で、我が子秀頼の事になると、秀吉は家康を信じたい一面もあったのでしょう。秀吉は家康ら五大老に、秀頼を託すとの遺言をのこしただけでなく、今後の豊臣家に尽くすとの誓書を何度も書かせていました。


しかし残念ながら、秀吉の想いは家康に届く事はありませんでした。

狸親父」と呼ばれた彼が一体どのような手口で豊臣秀頼を追い詰めたのか。それについて以下の記事で解説しているので、興味があればご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川家康のあだ名「狸親父」について。たぬきの意味って何?