宇喜多秀家は、身長170㎝と当時ではかなりの高身長で、今で言うイケメンだったとされ、豊臣秀吉の政権下では五大老に最年少で就任した秀吉の秘蔵っ子です。
この宇喜多秀家ですが、豊臣秀吉から「秀」の一字を貰い猶子になるなど、かなり気に入られていました。その背景には一体何があったのでしょうか。
宇喜多秀家の母親や妻である豪姫の存在などから、その背景を探ってみました。
宇喜多秀家が秀吉お気に入りだった2つの理由
宇喜多秀家が秀吉に気に入られていた理由ですが、まず毛利家に対する抑えとしての役割があったのでは?と個人的には考えてます。
秀家が秀吉の猶子となった時期は1580年代前半〜中盤。
当時の秀吉は、天下取りに向けて東へ勢力を拡大していました。
一方、西では本能寺の変をきっかけに和睦した毛利家が控えています。毛利家と豊臣家の関係は決して悪くはなかったものの、やはり油断はできない存在だったのだと思われます。その毛利家の抑えとして、秀家と宇喜多家の軍勢は当時の秀吉にとって、魅力的な存在だったのでしょう。
また、秀家の父親である宇喜多直家は1579年に織田家に臣従した後、織田家の中国方面の司令官であった秀吉に徹底的に尽くしています。秀吉からすれば、直家の恩を返す意味で秀家を重んじた意図があったのかもしれません。
母親が側室だったから気に入られていただけ!?
秀吉と言えば、戦国時代きっての女好き。
そしてその対象は、直家の妻で秀家の母親であるお福にも向けられたと言われてます。
このお福という女性は、尊称としての「大方殿」や院号の「円融院」という名前でも知られており、もともとは美作三湯の国人である三浦貞勝の妻であったと言われてます。
しかし、夫は1565年に戦死。お福はからくも落ちのび直家と再婚。
その7年後の1572年に秀家は生まれています。
そして直家の死後、お福は秀吉の側室になったと言われています。この2人の関係が、秀吉が秀家を重んじた原因になるとも考えられるのですが、詳細は定かではありません。
宇喜多秀家の妻、豪姫は秀吉の養女!
いずれにせよ、秀家が秀吉に気に入られた事は確かでした。
そして秀家は1588年に、秀吉の養女で前田利家の4女である豪姫を妻に迎えます。
豪姫は、秀家が備前宰相といわれていたため「備前御方」や「南御方」と呼ばれました。2人の間には3男2女、合計5人の子供が産まれており、夫婦仲は良かったのだと思われます。
また、豪姫はキリシタンだったとも言われています。宇喜多家の家臣団の中には明石全登などキリシタンの武将も少なからず居た一方で、日蓮宗を信仰していた家臣も少なくありませんでした。秀家は妻の信仰していたキリスト教を家臣に押し付け、これが原因で1599年のお家騒動が発生したという説もあります。
※参照:明石全登の読み方や関ヶ原での活躍について
1600年の関ヶ原の戦いで秀家が敗れると、豪姫は夫と離れ離れになってしまいます。
宇喜多家が改易された後、豪姫は数人の家臣を伴い、兄である前田利長が納める加賀へ戻され、化粧料1500石を与えられています。その後、豪姫は他家へ嫁ぐことなく、八丈島へ流された秀家に米などの物資を送り、夫と一緒に配流となった息子2人の身を案じ続けました。
この記事のまとめ
宇喜多秀家とは、秀吉の子飼いの中でも出世した武将でした。
宇喜多秀家が豊臣秀吉に気に入られていた理由は、毛利家の抑えとして必要だった事や父、直家に対する恩義を秀吉が返したという説。また、秀家の母親であるお福が秀吉の側室だったためとも言われています。
そして宇喜多秀家の妻である豪姫は、前田利家を父に、豊臣秀吉を養父に持つ名門の姫君でした。ただ、後半生は大変だったと推察できます。
この豪姫が前田家から連れてきた家臣団と、秀家の父親である直家から仕える重臣が争った結果が、以下の記事でも触れている「宇喜多騒動」になったという説があります。
この宇喜多騒動の原因は様々な説があるのですが・・・
※参照:宇喜多秀家の能力はどれ位?家臣団やお家騒動から検証!