明石全登」←これ、どうやって読むのかご存知ですか?


一般的には「あかしてるずみ」と読むのですが、他にも複数の読み方があるんですよね。

また、明石全登には複数の名前があって、もうどれがどれやらで訳が分からなくなってしまいます(笑)


今回は、明石全登の別名やその読み方、あるいは関ヶ原の戦いでの活躍や黒田如水との関係についてご紹介します。

スポンサードリンク

「明石全登」の複数の読み方とその別名


明石全登を取り巻く謎の一つに、複数伝わる名前があります。

その中で一番有名な名前は冒頭から使用している「全登」なのですが、実は、その読みについてもしっかりと一つに決まっているわけではありません。
全登という名前の場合、読みは「ぜんとう」「たけのり」「てるずみ」「なりとよ」「いえのり」など、実に多くの読み方が伝えられています。


その他にも景盛(かげもり)、守重(もりしげ)の名前も伝わっています。

また、通称は掃部(かもん)という名が伝わっており、明石掃部と呼ばれることも多いようです。


以下の記事では明石全登で統一して話を進めていきます。

明石全登の関ヶ原の戦いにおける活躍について


明石全登は関ヶ原の戦い本戦だけでなく、その前哨戦でも活躍している人物です。

まずは伏見城の戦いに宇喜多秀家に従い参加、伏見城の攻略をします。
次に杭瀬川の戦いにて中村一栄隊、有馬豊氏隊に大勝し、西軍に勝利をもたらしました。

関ヶ原の戦い本戦では宇喜多勢の先鋒として福島正則と互角の戦いを演じましたが、小早川秀秋の寝返りを機に西軍の敗戦が決まりました。
この際、小早川秀秋の裏切りに激怒した主君・宇喜多秀家が小早川隊の陣に乗り込もうとしたのを諌めて大坂城に撤退させました。

※参照:小早川秀秋の評価やその死因について。子孫は現在もいるの?

その後、明石全登は宇喜多秀家と離れ離れになり、岡山城へと退却します。しかし城は既に荒らされており、止む無く宇喜多家を出奔。ただ、ここで命を繋いだことが、15年後の大坂の陣での活躍に繋がるとも言えますね。

余談ですが、関ヶ原の戦いの明石全登の隊に、剣豪として有名な宮本武蔵が加わっていたという逸話もあります。

スポンサードリンク

明石全登の消息と黒田如水との関係


明石全登は、歴史の表舞台から遠ざかり、消息が不明になった時期が度々あります。

その中でも関ヶ原の戦いの後、一時期消息が不明になる直前には、明石全登が黒田如水を頼っているという話が残っています。

この背景として考えられるのが、キリスト教と、二人が遠縁関係に当たることです。

まず、明石全登も黒田如水も共にキリスト教徒であったということが史料から確認できます。
さらに、黒田如水の母が明石一族の出であるという史料が残っており、二人は遠い親戚に当たる関係だったと考えられます。


この時代はキリシタンが黙認されてはいましたが、豊臣秀吉のバテレン追放令などもあり、キリシタンには心許ない時代だったのではないかと私は考えています。

しかしそんな中、同じキリスト教を信仰し、遠縁の関係に当たるという関係は、全登の中で大変な支えとなったのではないでしょうか。


この他にも、敬虔なキリスト教徒であった黒田如水の弟・黒田直之が明石全登を匿ったという話もあり、明石全登と黒田家の絆を感じることができます。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


明石全登は、戦国時代の研究が進んだ現在でも謎の多い人物です。

関ヶ原の戦いでの活躍は明らかになってますが、その一方で、名前や読み方が複数ある事も、彼の人物像が掴みにくい一因になっている気もします。


しかし、宇喜多家や黒田如水など繋がりのあった家も史料に残っているため、これからこの謎が少しずつでも明らかになっていくのが私は大変楽しみです。
特に、大坂の陣以降の消息が分かっていない人物なので、その部分が明らかになるのを願っています。


大河ドラマ「真田丸」では、俳優の小林顕作さんが明石全登を演じる事になっており、その知名度も上がると予想されます。これによって、明石全登が注目され、何かしらの研究結果が発表…なんて事になるかもしれませんね。

※参照:大坂五人衆とは?大坂三人衆や大坂七人衆という言葉も?