長宗我部盛親と言えば「大坂五人衆」の1人として、また四国統一を成し遂げ「土佐の出来人」とまで言われた長宗我部元親の跡継ぎとしても知られた武将です。


この長宗我部盛親ですが、関ヶ原の戦いや大坂の陣ではどのように動いたのでしょうか。

長宗我部盛親の子孫の存在についても、同時に解説していきます。

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長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで活躍できなかった!?


長曾我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍として参加しています。
しかしそれは、望んで西軍として参加したわけではありませんでした。


関ヶ原の本戦までの間、石田三成が西軍の将を集めるため様々なやり取りを行っていました。

その中の一つに、東軍参加予定の大名を足止めする関所の設置があったのですが、これによって盛親は鍋島勝茂、前田茂勝らと共に、ほぼ強制的に西軍として参加せざるを得ない状況に陥ったのです。


その後の関ヶ原の戦い本戦では、長宗我部盛親は西軍の主力部隊として活躍する予定でした。

彼は毛利秀元や吉川広家ら毛利勢と共に、家康の本陣の背後にある南宮山に6600の兵力と共に布陣していました。戦況によっては、大いに活躍できた可能性もあったと考えられます。

しかし、いざ東軍の背後を攻撃できる状況になると、徳川家康と内応していた吉川広家隊の阻害により、長宗我部隊は関ヶ原の戦い本戦に参戦することも叶わず敗戦となったのです。

その後、長宗我部盛親は徳川家康に謝罪するも、側近である久武親直の讒言によって兄の津野親忠を殺害した事が家康に咎められて許されず、長宗我部家は改易されてしまいます。

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長宗我部盛親は大坂の陣でどのように活躍したのか?


その後、長宗我部盛親は京都で浪人として生活するも、大坂の陣で豊臣秀頼に招かれ、大坂方として参戦する事になります。

長宗我部盛親の大坂の陣での活躍はどのようなものだったのでしょうか。

まず大坂冬の陣ですが、盛親は木村重成、後藤又兵衛らと共に八丁目口・谷町口に布陣。徳川方の井伊直孝、松平忠直と戦い損害を与える事に成功しています。

大坂夏の陣では、長宗我部盛親は木村重成と共に河内口へ出兵。盛親の隊は主に八尾村での戦闘が主となり、若江村に布陣した木村重成と共に徳川本陣の側面に迫ろうとしていたのです。いわゆる「八尾・若江の戦い」と呼ばれる合戦です。

しかし、これに対峙したのが徳川方の藤堂高虎と井伊直孝でした。
盛親の隊は藤堂隊とぶつかり、藤堂隊を壊滅に近いところまで追い詰めます。

明け方から正午まで続いたこの戦いで長宗我部勢はその力を存分に発揮していましたが、若江での木村隊の敗北の報せにより、孤立が危惧されたため、盛親は大坂城へ撤退を余儀なくされました。

しかし、この八尾の戦い、およびその撤退時に長宗我部隊は大損害を受けてしまい、翌日の「天王寺・岡山の戦い」に盛親は参戦できず、大坂城に留まる事になります。

長宗我部盛親の子孫とその後の長宗我部家は?


大坂の陣の敗戦により、長宗我部盛親とその子らは京都にて斬首され、直系の子孫は絶えたとされています。

ただし、盛親の次男、長宗我部盛高の子孫を自称する人物が2015年に行われた400年法要の際に現れ、盛親が使っていたとされる馬具を持参するといった事例もあり、今後の研究が待たれる所です。


一方の長宗我部家自体の子孫ですが、他家に養子になっていた吉良氏や島氏といった傍系の一族が、その血を現代まで伝えています。

現在の長宗我部家の当主である長宗我部友親氏は、長宗我部元親の末の弟、島親益の子孫に当たる人物です。


戦国時代の長宗我部氏は、嫡男以外が四国の他家に養子として入り、四国の統一と家臣団の結束を図ったと私は考えているのですが、これが傍系の続いていく一端にもなっているのではないでしょうか。

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この記事のまとめ


長宗我部盛親の人生は、特に大きな分岐点となるところで不運が続いたと言えるでしょう。

やむなく西軍に付いた関ヶ原の戦いでも参戦できず、領国を没収。
大坂の陣では活躍は見られるものの捉えられ処刑。

直系の子孫は途絶えてしまったものの、長宗我部家自体は残っている事に思わずホッとしてしまいました…。

また、長宗我部盛親は真田信繁や毛利勝永と共に、元大名の家柄から「大坂城三人衆」として重んじられていました。この言葉について以下の記事でまとめてあるので、興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:大坂五人衆とは?大坂三人衆や大坂七人衆という言葉も?