現代の日本にも根付いている「詫び寂び」の概念を生み出し、わび茶を完成させた事で知られる千利休
茶人として織田信長に仕え、天下人・豊臣秀吉の側近でもあった利休でしたが、秀吉に命じられ切腹という非業の死を遂げてしまった最期はあまりにも有名です。

この千利休ですが、妻が2人いました。先妻の名前を宝心妙樹、後妻を宗恩と言うのですが、それぞれどのような人物だったのでしょうか。

またその子供たちについても詳しくご紹介します。

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千利休の先妻「宝心妙樹」とその間に産まれた「千道安」について


千利休の先妻である宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ)は名をお稲といい、一説には戦国最初の天下人とも呼ばれる武将・飯盛山城主である三好長慶の妹とも言われています。

※参照:三好長慶の略歴や子孫について解説。三好家の家紋の由来は?

宝心妙樹は1542年に千利休に嫁ぎ、長男・千道安と4人の娘をもうけ夫に尽くしましたが、利休との仲は円満ではなかったと言われています。なお、「宝心妙樹」とは1577年に彼女が亡くなった際付けられた法名です。


二人の長男である千道安は父・利休と同じく茶人としての道を歩み、彼の茶道の精神はよく「剛・動の茶」と表されています。
また他人の言葉に耳を貸さないほど自我が強く、偏屈な人間であったと伝えられています。

それもあってか、道安は若い頃は父親である利休とは折り合いが悪く、飛騨の金森長近・四国の蜂須賀家政・豊前の細川忠興といった大名の元を転々と放浪したのちに利休と和解して、共に豊臣秀吉の御茶頭八人衆に加わりました。

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その一方で、1587年の秀吉主催の北野大茶会では利休の次に道安の名があがるなど、利休もこの長男を後継者と考えていたようです。

父親の利休が切腹した後、道安は金森長近のもとで謹慎の身となっていましたが、1594年に徳川家康や前田利家の計らいにより堺に戻ったのち「堺千家」を再興しました。
しかし、道安は跡継ぎがいなかったため、1607年の彼の死去と共にこの堺千家は断絶しました。

ちなみに、利休と宝心妙樹との間に産まれた長女は利休の甥で茶人の千紹二に、次女は利休の弟子である万代屋宗安に嫁いでいます。この次女は秀吉に大層気に入られ奉公するよう乞われましたが、それを断ったために利休の自害に繋がったという説も残されています。
三女の三は従弟の石橋良叱の元へ、四女・吟は本能寺の僧侶であった円乗坊宗円に嫁ぎました。

※参照:千利休の最後について解説。黒幕は石田三成?利休忌とは?

後妻「宗恩」と千利休の跡を継いだ「千少庵」について


後妻の宗恩(そうおん)の名前は「おりき」で「宗恩」は法名にあたります。彼女は能役者・宮王三入の妻で、利休が三入に能を習っていた際に仲良くなったとされています。1553年、宗恩の夫である三入が没すると、残された宗恩と息子の少庵を利休が直ちに引き取り面倒をみていたと言われています。
一説では、宗恩は戦国武将であり茶人としても有名であった松永久秀の妻だったとも言われています。

※参照:松永久秀の家紋や子孫について解説。織田信長からの評価は?


利休が宗恩を正式な妻としたのは1578年先妻・宝心妙樹の死去の翌年で、二人の間には宗林と宗幻という二人の息子がいましたがいずれも夭折しています。宗恩は茶道にも精通し、茶道具や茶事の工夫に優れていたとされ利休のよき理解者でもあったそうです。

その一方で、宗恩は少々嫉妬深い女性だったようで、利休の浮気を疑って城一個分の価値のある茶碗を叩き壊したこともあるみたいです。でもその時の利休は「壊れた茶碗を直して使うのもなかなか乙なものでしょう」と言って終わったという逸話があります。
さすが千利休といったところでしょうか…(笑)


さて、利休と宗恩の再婚を機に宗恩の連れ子である千少庵は利休の六女・亀と結婚し、晴れて利休の養子となりました。
少庵は、同じ歳の利休の嫡男・道安と一緒に茶道を学びライバルのような間柄であったとされます。少庵は「剛・動の茶」と言われる道安と対峙して「柔・静の茶」と呼ばれ、性格も穏やかで円満だったため誰からも好かれる人柄であったそうです。

道安は少庵を嫌って堺千家を作ったとも言われていますし、個性もチグハグな二人の仲はあまりよくなかったようですね…

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その後、少庵は利休の切腹後に秀吉の命で会津若松の蒲生氏郷に預けられますが、1598年秀吉の死に際し京に戻ると没収されていた利休の茶室「不審庵」と茶道具一式を返却され、千家を再興しました。
この少庵と亀の間に生まれた千宗旦(せんのそうたん)はのちに千家を継ぐこととなりますが、晩年祖父・利休の悲惨な死を目の当たりにし、誰にも仕官せず質素な生活を好んだとも言われています。
宗旦には4人の息子がおり、いずれも茶人となりました。このうち次男が武者小路千家を、三男が表千家を、4男が裏千家を創設しており、この3つは後に「三千家」と呼ばれる事となります。

※参照:表千家、裏千家、武者小路千家の違いは?由来や歴史も解説!

ちなみに利休には宝心妙樹と宗恩の他にもう一人妻がおり、その妻との間にも5人の子供をもうけています。その一人が陶芸・楽焼の名手である田中宗慶で亀はその妹にあたります。

この記事のまとめ


千利休には先妻の宝心妙樹と後妻の宗恩という2人の妻がいました。

先妻の宝心妙樹との間には5人の子供に恵まれたものの、夫婦仲は円満とは言えなかったようです。二人の嫡男・千道安は偏屈な男ではありましたが、利休も認めるほどの茶人で「堺千家」を作りました。しかし跡継ぎがいなかったために堺千家は断絶したと伝わっています。

その一方で、後妻の宗恩は茶道にも精通し利休のよき補佐役で理解者でもありました。その連れ子の少庵は道安とは正反対の穏やかな男で、のちに千家を再興しました。少庵の孫は後に表千家、裏千家、武者小路千家という「三千家」を興しており、この3流派は今日まで伝わっています。