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戦国ダークヒーローとして名高く、壮絶な最期を遂げたことでも有名な武将・松永久秀


久秀はその強烈な最期と比較すると、家紋や子孫についてはあまり知られていません。


そこで今回は松永久秀の家紋や子孫の有無・繁栄状況について説明するとともに、織田信長が久秀をどのように評価していたのかについても解説します。
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織田信長は松永久秀をどう思っていたのか?


松永久秀と織田信長の間柄は謀反など悪いイメージがありますが、信長は久秀をどのように評価していたのでしょうか。
この点について考えるにあたり、信長と久秀の関係に着目してみましょう。


信長は家臣の裏切りを決して許さない男であったと言われています。ところが、久秀に関しては二度もの裏切りを許し、三度目の裏切りも茶釜と引き換えに命だけは助けようとしました。

※参照:織田信長の性格の長所と短所とは?数々のエピソードを解説!

信長は、久秀のことを殺すには惜しい人物であると考えていたということですね。
つまり信長は、久秀を一定程度評価していたと言えるでしょう。


また、信長は久秀のことを模範としていた節も見受けられます。

久秀は三好氏の乗っ取り、第13代将軍足利義輝暗殺、東大寺大仏殿焼討ちという3つの悪行を働きました。一方の信長も主家である織田信友に反逆するとともに、第15代将軍足利義昭の追放や、比叡山焼き討ち事件を起こしています。

主家の乗っ取り」「将軍への反逆」「寺院への焼き討ち」と、2人の行った事にはこのような共通点が見られます。ある意味、信長は久秀の悪行を模倣したとも言えるでしょう。

他にも、信長は久秀のことを尊敬と皮肉を込めて「常人では一つとして成せないことを三つも成した男」と語ったそうです。こうした発言からも信長が久秀に一目置いていること、彼の行った悪行にも一定程度の評価を与え、自身の政略の参考にしていた事が読み取れます。

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松永久秀の家紋「蔦紋」とは?


ここでは松永久秀の家紋についてご紹介します。

久秀の家紋は「蔦紋」(つたもん)と呼ばれるデザインです。

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蔦は生命力の強い植物であることから、蔦紋は家や子孫の繁殖繁栄を示す縁起がいい家紋として愛されてきました。上昇志向の強い久秀にぴったりの家紋と言えそうですね。

この蔦紋は日本十六紋の一つにも数えられており、久秀の他にも藤堂高虎や出雲阿国が使った他、江戸幕府8代将軍である徳川吉宗や、十返舎一九、頼山陽といった江戸期の文化人が利用している事で知られています。
戦後では竹下登元首相や仮面ライダーの生みの親である石ノ森章太郎氏、また元プロ野球選手の松井秀喜さんや歌手の一青窈さんがこの蔦紋を用いています。武将や政治家よりも、文化人、あるいは遊女に好まれた家紋だったと言われています。

※参照:徳川吉宗のプロフィールや評価とは。本当に暴れん坊だった?

また、蔦からは大木に絡まって生き延びようとするしぶとさも感じられます。このような蔦の性質は、主君や将軍を暗殺してまで出世を目指した久秀の人生と重なるところがあります。久秀が家紋として用いた蔦紋とは、久秀の人生そのものを表していると言えるのではないでしょうか。

松永久秀の子供や子孫についても解説!


下克上と言えば真っ先に名前が浮かぶと言っても過言ではない松永久秀ですが、久秀の子孫は現在にも続いているのでしょうか。

まず、松永久秀には実子2人(男子1人と女子1人)と養子1人の計3人の子どもがいました。嫡男である松永久通は若き頃から父に従い、久秀が計画した足利義輝暗殺の実行者として暗躍しています。久秀が信長に対して3度目の謀反を起こすと、久通もこれに従い、父とともに自害しています。享年は34歳でした。

久通には2人の男子がおり、そのうちの一人と言われている松永一丸は博多で質屋を営んで大いに栄えたと言われています。この松永一丸の子孫は後に佐賀藩に仕え、その家系からはマレー沖海戦で活躍した海軍大将の松永貞市氏や、その子供で海軍大尉、作家の松永市郎氏、そしてその子供でNTTドコモでIモードを開発した松永真理氏が知られています。

また、久秀の養子である松永永種は久秀滅亡時に既に出家していたため、死を免れました。永種の息子は松永貞徳と名乗り、俳人として活躍しました。貞徳の息子である松永五尺は儒学者として名を馳せ、徳川家康に仕えた儒学者、林羅山らと並び「窩門四天王」と称された他、貝原益軒や木下順庵ら江戸期の著名な儒学者を弟子として育てました。

松永久秀の子孫は、嫡男こそ共に死を迎えたものの、子孫は文化人や軍人として繁栄したことが特徴的と言えるでしょう。

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この記事のまとめ


松永久秀の家紋や子孫、織田信長からの評価について解説してきました。
その内容は、以下のようにまとめることができます。

・織田信長は松永久秀を評価しており、久秀の行った悪行を踏襲している節が見受けられる
・久秀の家紋は「蔦紋」であり、蔦の生命力の強さは彼の出世欲を象徴しているとも考えられる
・松永久秀の子孫は俳人、儒学者、軍人など幅広いジャンルで活躍している



松永久秀とはあの織田信長が評価するほど面白味のある人間であると言えそうですね。
また、子孫が幅広く繁栄したことからも、久秀の上昇志向や優秀さは脈々と受け継がれたと言えるるのかもしれません。


余談ですが、久秀は一時期、徳川家康の名参謀と言われた本多正信を召し抱えていた事でも知られています。以下の記事では、当時の2人の関係について解説しているので、興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:本多正信の評価について解説。家康や松永久秀の正信像とは?