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「天下分け目の戦い」という言葉を聞いたことがありませんか?

これは戦国時代の終わりに起こった「関ヶ原の戦い」という、とても大きな戦のことを示しています。関ヶ原の戦いとはどのような戦いだったのか、なぜ起こったのか、気になる点がいっぱいありますよね。

そこで今回は、関ヶ原の戦いについて小学生向けに簡単に解説します。
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関ヶ原の戦いを小学生向けに簡単に解説!


まずは「関ヶ原の戦いって?」といった疑問を小学生向けにお答えします。

関ヶ原の戦いとは、1600年に現在の岐阜県で起こった戦いのことです。豊臣秀吉が死んだ後の権力をめぐって石田三成(いしだ みつなり)が率いる西軍と、徳川家康(とくがわ いえやす)が率いる東軍が戦いました。兵力は西軍85000人、東軍は88000人と大きな差はありませんでした。


初めは石田三成や大谷吉継(おおたに よしつぐ)、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の頑張りによって、西軍が有利に戦いを進めていました。
しかし、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)による裏切りや、毛利家を中心とした西軍の主力部隊が戦いに参加しなかったため、西軍は次第に不利な状況に追い込まれます。

その後、勢いを増した徳川軍によって西軍は総崩れとなり、戦いが起こってからわずか1日で東軍の勝利が決まりました。

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関ヶ原の戦いはなぜ起こったのか?


そもそも、関ヶ原の戦いはなぜ起こったのでしょうか。

そのきっかけは、豊臣秀吉の死去にさかのぼります。秀吉の死後、その子供である豊臣秀頼(ひでより)がまだ幼かったため、石田三成を中心にした「五奉行」と徳川家康を中心にした「五大老」という二つのグループによって政治が行われるようになります。

このグループの中で一番力を持っていた徳川家康は、天下を取るために行動を開始します。
例えば、有力な武将たちと政略結婚を繰り返したり、秀吉の親戚で戦いが得意だった加藤清正(かとう きよまさ)や福島正則(ふくしま まさのり)といった「武断派」と、三成や大谷吉継ら「文治派」の対立を利用し、自分の味方を増やしたりしました。

これに危機感を募らせた石田三成は、家康を倒すことを目標にして動き始めます。
こうして深まった家康と三成の対立は、三成と親しかった上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を征伐するという家康の行動をきっかけにピークに達し、関ヶ原の戦いへと一気につながったのです。

※参照:石田三成ってどんな人?年表や関ヶ原の戦いを小学生向けに解説!

関ヶ原の戦いで東軍が勝った3つの理由って?


関ヶ原の戦いが起こった当初、西軍と東軍の兵力はほぼ同じでした。
では、この戦いで東軍が勝ったのはなぜなのでしょうか。

ここでは、有名な3つの説を簡単に見てみましょう。

その1. 小早川秀秋が裏切ったため


はじめは西軍にいた小早川秀秋ですが、実はは東軍に内通していました。

15000名の兵力を率いて西軍の要である大谷吉継隊に襲いかかった秀秋の裏切りによって、西軍に所属していた4000名の武将たちも同時に裏切りました。約20000名もの寝返りによって大谷吉継の部隊は壊滅し、結果として東軍が有利な状況になりました。

ちなみに、以下の記事では小早川秀秋が裏切った理由について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:小早川秀秋の関ヶ原での裏切りの真相。陣取った松尾山とは?

その2. 毛利家が動かなかったため


西軍の85000名のうち、約3分の1にあたる兵力を毛利家が率いていました。

しかし、毛利家は一族の吉川広家(きっかわ ひろいえ)が東軍に内通していて、広家の策略によって他の毛利家の兵力は戦いに参加する事はできませんでした。

西軍の兵力は85,000名と言われてますが、毛利家や小早川秀秋などのの裏切りを含めると、その兵力は東軍の2分の1ほどだったんですよね。
この戦いは、はじめから東軍が有利だったと言ってもいいのかもしれません。

※参照:関ヶ原の戦いの裏切りとその理由。東軍から西軍に裏切った武将とは?

その3. 三成と家康の人気や実力の差


また、東軍と西軍の中心人物である徳川家康と石田三成は、人気、実力とともに家康の方が上回っていました。

この時、徳川家康は関東地方のほとんどを領地としていたのに対し、石田三成が治めていたのは滋賀県の一部に過ぎませんでした。そのため、この2人が動かせた兵力には大きな差があったんですよね。

また、石田三成は戦いよりも政治の方が得意な人物でした。そのため、加藤清正や福島正則といった数々の戦いで活躍した武将とは相性が合わなかったんですよね。
清正や正則は、石田三成の事が嫌いなあまり三成を殺そうとした事もあるほどで、関ヶ原の戦いでは東軍について活躍しました。

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このように、西軍の内部は裏切りや傍観などの分裂が生じていたということですね。
ここに付け入った東軍が結果として勝利を手にすることができたのです。

関ヶ原の戦いのその後はどうなったの?


最後に、関ヶ原の戦いのその後を簡単に見てみましょう。

西軍を率いた石田三成は、その責任を問われ処刑されてしまいます。また、西軍について戦った大名の多くが三成のように処刑されたり、大谷吉継のように合戦中に亡くなったり、あるいは宇喜多秀家のように領地を没収されたりしました。

その一方で、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は大きな敵がいなくなり、1603年に江戸幕府を開きます。関ヶ原の戦いで大きな功績を挙げた武将たちには、西軍武将から没収した領地が分け与えられました。例えば加藤清正は熊本県を、福島正則は広島県を与えられています。

関ヶ原の戦いのその後は、西軍と東軍どちらに味方したのかによって大きく明暗が分かれたということですね。

※参照:福島正則と加藤清正の違いについて5点ほどまとめてみた

この記事のまとめ


関ヶ原の戦いを小学生向けに簡単に解説しました。

秀吉の死後の権力をめぐって起こった関ヶ原の戦いは、石田三成が率いる西軍と徳川家康が率いる東軍によって行われました。秀吉の死後、天下統一を目指して行動を開始した家康は、関ヶ原の戦いでも裏切り工作などを行い、東軍を勝利に導きます。戦いの後、三成をはじめとする西軍武将は悲しい末路をたどることとなります。

一方の家康は幕府を開き、徳川家による政治の道を示しました。関ヶ原の戦いには多くの武将が参加し、裏切りなどの政治工作もいっぱい行われました。

気になった人物や戦術などはもちろん、以下の記事を参照に関ヶ原の戦いが行われた場所などを深く調べてみると、きっと面白いと思いますよ。

※参照:関ヶ原の戦いの場所はどこなの?