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天下分け目の戦いと称される関ヶ原の戦いですが、小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによってあっけなく終焉を迎えます。


その一方で、関ヶ原の戦いを「裏切り」という視点から見ていくと、様々な人間模様が見られて面白いですよ。この記事では「裏切った理由なんてない。むしろ自分が味方なんて言ってない」といわんばかりの舞台をご紹介します。


また、東軍から西軍へ裏切った武将はいたのでしょうか。
その真相についても見ていきましょう!
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関ヶ原の戦いで西軍から東軍へ裏切った武将について


関ヶ原の戦いは、西軍から東軍に裏切った武将により、早期の決着につながったとされていますが、彼らの中には戦場で裏切った武将と事前に内通していた武将がいます。

前者の代表的存在が小早川秀秋と、それに呼応して大谷吉継を攻めた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の4将です。大谷吉継は小早川秀秋の裏切りは事前に予想しており、一時的は秀秋の隊を500メートルも押し戻したと言われています。しかし、続く脇坂らの裏切りによって大谷隊は壊滅し、これをきっかけに一気に東軍が有利になりました。

※参照:脇坂安治と李舜臣の関係は?関ヶ原での裏切りや子孫について


その一方で、関ヶ原の戦いでは事前に東軍へ内通していた武将も少なからずいました。

例えば、五奉行の1人である増田長盛は伏見城の戦いに参加した一方で、家康に西軍の情報を流していたとされています。

また、事前に内通していた武将の代表的な存在と言えるのはやはり吉川広家でしょう。
彼は戦で西軍の攻撃に参加しなかったものの、南宮山のふもとに待機する事で、西軍の戦力を減らす事に貢献したと言えます。結果として、彼の身近にいた毛利秀元や長宗我部盛親らは本戦に参加する事は出来ませんでした。

こうした武将たちが西軍から東軍へ裏切った理由とは?


では、関ヶ原の戦いで東軍へ寝返った武将たちが裏切った理由は何だったのでしょうか。

例えば小早川秀秋の場合、徳川家康による松尾山の砲撃という「脅し」によって最終的に東軍についたと言えます。

参戦当初、小早川秀秋は有利な方に味方しようと、戦局を見極めていました。しかし、家康から砲撃されたことによって秀秋は彼を恐れ、東軍につくことを決めたという話が残っています。

これ以外の説として、小早川秀秋はもともと秀吉の養子でありましたが、秀頼が生まれた後に小早川家の養子にされてしまったため、豊臣氏に恨みをもっていたことも家康に味方した理由の一つであると思います。

※参照:小早川秀秋の関ヶ原での裏切りの真相。陣取った松尾山とは?


また、脇坂安治はもとから東軍として参戦するつもりでしたが、石田三成の妨害によってやむなく西軍についたとされています。ここで注目すべきなのは、脇坂安治は事前に家康に裏切る事を知らせていたという理由で、戦後の所領安堵に成功ている事です。その一方で、脇坂と共に大谷吉継を攻撃した小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の3名は事前に裏切る事を家康に告げていなかったため、裏切ったにも関わらず戦後、改易処分をくだされています。

ちなみに「やむなく西軍についた」という武将は以外と多いです。
有名どころでは長宗我部盛親や島津義弘らもこの理由でやむなく西軍に属しています。


また、増田長盛が裏切った理由は己の保身とされています。
ただし、彼は事前に寝返る事を告げていた脇坂安治とは異なり戦後改易処分を受けています。

裏切るのは簡単でも、その後の所領安堵はなかなか難しいですね。


吉川広家の場合はもともと東軍寄りだった事に加え、同じ毛利家家臣の安国寺恵瓊が気に食わなかった事も裏切りの理由として挙げられます。主君である輝元が安国寺恵瓊によって総大将にされた事を危惧した広家は独断で黒田長政を通して家康に裏切る旨を伝えます。

結果として毛利家の所領は大幅に削減されたものの、毛利本家は改易はされませんでした。

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関ヶ原の戦いで東軍から西軍に裏切った3名の武将とは?


ここまででは、関ヶ原の戦いで東軍から西軍へ裏切った武将を紹介しました。


では、逆に東軍から西軍へ裏切った武将っていたのでしょうか。


実は、いました。田丸直昌、遠藤胤直、そして真田昌幸の3名です。


田丸直昌は美濃国の岩村城の城主で、関ヶ原の戦いの直前に大坂へ移動し西軍に味方しました。東軍によって岩村城周辺が攻め込まれた後、東軍の勝利が確定すると、田丸直昌は東軍に降伏しています。戦後は改易されるも命は助けられ、越後の堀秀治に預けられ同地で没しています。

遠藤胤直は当初、義父の遠藤慶隆と共に東軍に所属していましたが、突如何の前触れもなく西軍に味方したそうです。しかし、上ケ根城に籠城していましたが、慶隆や金森可重に攻められ降伏させられました。その後は西軍に味方した他の武将と同様に改易処分となっています。

また、真田昌幸はもともと家康の会津征伐に従軍した後で西軍へ加わっているので「東軍から西軍へ裏切った武将」と言えるかもしれません。関ヶ原の戦いでは幸村と共に上田城に籠城し、徳川秀忠の隊を破りました。戦後は長男の信幸とその舅である本多忠勝の嘆願もあり、高野山への蟄居処分になりました。

この記事のまとめ


関ヶ原の戦いを考えると、どうしても中心人物である徳川家康と石田三成の動きに目がいってしまいますが、こうした西軍から東軍へ裏切った、あるいは東軍から西軍へ裏切った武将たちの動きに注目すると、また別の見方ができるのではないでしょうか。

その一方で、彼らが裏切った理由は豊臣家への恨みや己の保身、もともと東軍に加勢するつもりだった、あるいは東軍の勝利を確信していたなど、一人ひとり事情が異なるのが面白いですね。

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