shoyama20140916


茶聖とも謳われた至高の茶人・千利休は、現代にも通じる詫び寂びの文化や日本人のおもてなし精神の礎を築いた崇高な人物として、その名が知れ渡っていますよね!


そんな日本の美の原点を作ったとされる利休とは、どのような経歴の持ち主だったのでしょうか?
千利休の生い立ちや、その辞世の句に込められた意味について振り返ってみましょう。


また、千利休には「実は忍者だった!?」という珍説があるのですが・・・
その出処についても見ていきましょう。
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千利休の生い立ちについて解説。名字は田中だった!?


千利休の生い立ちについて、まずは見ていきましょう。

千利休は本名を田中与四郎といい、当時国際色豊かだった大阪・堺の魚問屋の息子として誕生しました。利休の「千」という名字ですが、祖父である「千阿弥」の字に由来しているのだとか。

また、弟子の山上宗二が記した「山上宗二記」において、利休を「田中宗易」と記した記述があるため、当時の利休の名字は「田中」として知られていた事が分かります。

※参照:千利休の弟子について。利休七哲のメンバーや山上宗二とは?


利休の生い立ちの話に戻りましょう。

デキる商人であった父の跡を継ごうと、利休は品格や教養を身に付けるため16歳で茶道を始め18歳の時に茶の湯の第一人者・武野紹鴎に弟子入りし、紹鴎のもとで「不足の美」の思想に感銘を受けます。この不完全だからこそ美しい」という思想をさらに進め、これ以上何も削れないという極限まで無駄を省いた緊張感あるのちの侘び茶を大成させました。

茶の湯の世界に魅了されたためか、結局利休は家業である魚問屋は継がなかったみたいですね…


そして46歳の時、堺の経済の中心人物になっていた利休は、この町との繋がりを強くしようと考えた織田信長に茶頭として重用されることになります。そして、本能寺の変で信長が死去した後は、今度は豊臣秀吉に仕えます。

その後、秀吉が関白就任を祝う席で「利休」という居士号を天皇より初めて賜りました。


茶人としての名声と権威と手にし、政でも秀吉の厚い信頼を得ていた利休でしたが、思想の相違や秀吉の行為に反感を抱き始めていたことなどから次第に秀吉と対立し始め、1591年秀吉の怒りをかったとして京を追放されます。

利休の最期は、様々な理由が飛び交っていて真相はいまだ謎のままですが、秀吉に命じられて武士さながら切腹で69歳の幕を閉じるのです。

※参照:千利休の切腹の理由を7つまとめてみた。

千利休が残した辞世の句とその意味について


千利休が切腹の直前に詠んだとされる辞世の句があるのをご存知ですか?

そもそも「辞世の句」とは、人がこの世を去る時に詠んだりしたためたりする漢詩や俳句、和歌などを指し、その人の人生観や死生観を表すものとして歴史上で数多く残されています。


千利休が切腹する前日に残したとされるものがこちら…

人生七十 力囲希咄 吾這寳剣 祖佛共殺
堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に擲つ


至高の文化人であった利休らしく、ご覧の通り難しい言葉の数々が並んでいます。


実は今の言葉で訳するのは難しく、また解釈の仕方も人それぞれなので一概には言えませんが・・・あえて簡単に解釈するとするならば…

人生七十年。この長い人生様々なことがあった。えいっ!やあっ!とうっ!この寳剱(宝剣)で祖仏も我も共に断ち切ろうぞ。我は得具足(うまく使える武器)である一本の太刀を引っさげ今この時こそ自らの命を天に投げ打とうではないか

このような感じでしょうか。


何だか勇ましいイメージでこれだけ聞くと、どこの名立たる戦国武将のものだろうと思ってしまいそうですよね!


でも茶人としてだけではなく、織田信長や豊臣秀吉らの傍らで天下統一をずっと見守り続けていた利休だからこその辞世の句と言えるのではないでしょうか。

また静なるものを好んだ利休らしからぬ激しさを孕んでいるところから、最期の無念さや怒りなどが見え隠れしているような気もします。

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千利休は忍者だった!? なぜこうした説が存在するのか…?


千利休が忍者だったとする説をあなたは知っていますか?

しかしこの説の出どころははっきりとせず、利休を忍者とする有力な証拠もありません。


ただ「千利休スパイ説」は認識度の高い一説としてあります。

次の天下人の座を狙う徳川家康が、当時豊臣家で最も有力な政治顧問的存在であった利休と裏で手を組んでいたとする説です。家康が秀吉と折り合いが悪くなっていた利休に接近していたとするならばあり得ない話ではありませんよね?

利休が最後に自分の茶室で密会をしていたのも家康だと言われていますし…


また、秀吉の朝鮮出兵に反対の意を唱えたのが利休一人であったことから朝鮮のスパイだった説もあります。

しかしそれは当時秀吉に堂々と意見できる人物が利休ぐらいしかいなかったという話なだけであり、朝鮮出兵に反対していたのは他にもいたと考えられこれを朝鮮スパイ説に繋げるのは無理があると思われますが…

こういったスパイ説が出回った結果、スパイ(隠密)=忍者という人々の認識から千利休=忍者という噂になったのかもしれませんね。

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この記事のまとめ


千利休の生い立ちを簡単にまとめると、彼は大阪・堺で魚問屋の長男として誕生し、教養のために始めた茶道に魅了され詫び茶を大成させるまでになりました。

晩年は天下人信長や秀吉に仕え、茶人としてはもちろん政治にも大きく関わる重要人物となっていきました。


利休が残した辞世の句は、彼が重んじていた詫び寂びの精神とは対照的な、勇ましく激しい印象を与える内容になっています。
この句からは聡明さと無念さや怒りが同時に感じ取れる気がします。それは茶人としてだけでなく天下人に仕え、武士のように切腹で幕を閉じた利休が残した句だからこそではないでしょうか。

また、確かな証拠はない千利休忍者説ですが、徳川家康や朝鮮のスパイ説と混同して囁かれるようになったのではないかと考えられます。


なお、以下の記事では千利休の妻とその子供たちについて解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:千利休の2人の妻とその子供について解説!