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幕末ファンなら一度は聞いたことのある斉藤一ですが、知名度のわりにはいま一つ、新選組の一員だったこと以外よくわからない、という方は多いと思います。

ここでは斉藤一の新選組での役職や、その強さ、そして時代が明治になった後に斉藤一がどのような人生を歩んだのかを見てみたいと思います。
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斉藤一の新選組での役職ってどんなもの?


斉藤一の新選組での役職は、副長助勤というものでした。

副長助勤とは、局長、副長につぐ三番目の地位をさします。ただし、この副長助勤には複数人が任命されていたので、斎藤一が新選組ナンバー3であったとは一概には言えませんね。

また、斉藤一が加入した1863年は、新選組の前身である壬生浪士組(または精忠浪士組)とよばれていた時代で、内情は芹沢鴨派と近藤勇派の勢力争いでした。
この時期の新選組には、芹沢鴨、近藤勇、そして芹沢鴨の腹心の部下であった新見錦の3人もの局長が存在していました。このため近藤勇派では、ひとりでも多くの副長助勤をおきたいという思惑も働いたと考えられます。

のち、芹沢鴨、新見錦を退け組織を一新すると、斉藤一は三番隊組長を任されます。
一番隊は沖田総司、二番隊は永倉新八が隊長ですから、それにつぐ存在と考えると、改めて斉藤一への評価の高さが伺えます。
また、撃剣師範を任されるなど、新選組内部における後進の育成にも関わりました。

他の主だったメンバーが試衛館(近藤勇が道場主をつとめた天然理心流の剣術道場)の仲間だったことを考えれば、斉藤一の加入時期は比較的遅く、京都で正式に会津藩預かりとなり新選組として立ち上げを行った日とされていますから、よほど信頼をされたのでしょう。

新選組には有名な隊規(隊士が守らねばならないきまり)があり、これに違反したものには切腹をさせたり暗殺をしたりするなど粛清の対象となるのですが、斉藤一はそうした粛清役も多くこなしています。

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斉藤一の強さってどれ位だったの?


それでは、斉藤一の強さはどれほどだったのでしょう。

沖田総司や永倉新八といった幕末最強ともいわれる剣の達人に勝るとも劣らないと言われるほど、斉藤一の強さは当時から際立っていたようです。この件について、元新選組隊士で明治以後も生き残った阿部十郎という人物は、新選組最強として「1に永倉新八、2に沖田総司、3に斎藤」と述べています。
ここで1番強い隊士とされた永倉新八は、沖田と斉藤の剣の腕前について「沖田の剣は猛者の剣、斉藤の剣は無敵の剣」と評価しています。

池田屋事件、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いと新選組の主だった戦闘では常に最前線に立ち続けた斉藤一。生き残るだけでも奇跡に近い激戦の中を、彼はまるで生死など眼中にないかのように戦い続けます。
その後、会津藩に身を寄せた斉藤一はここでも新選組として戦闘に加わり、会津藩降伏後も戦いつづけ、会津藩主の松平容保がたまらず使者を出して降伏を促すほどでした。

斉藤一は、剣はもとより、運や精神力、生命力も含めて類い稀な強さを備えた剣客といえそうですが、皮肉なことに歴史は彼を明治維新における敗者の側に立たせました。

晩年のことですが、昭和の有名な剣道家である山本忠次郎が少年のころ、木の枝に空き缶をつるして突きの稽古をしていたところに斉藤一が通りかかり、竹刀で一突きしてみたところ一瞬で缶を貫いたそうです。全盛期の斉藤一が真剣で突いたらどれほど威力があるのか、ちょっと想像がつきませんね。

※参照:新撰組を小学生向けに簡単に解説。年表や最強の隊士は誰?

斉藤一はその後どうやって生きていったのか?


それでは、斎藤一はその後どのような人生を送っていたのでしょうか。

鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いで奮戦した斎藤一は、土方歳三と別れて会津に向かい、この地で松平容保らと共に新政府軍と戦いました。

明治になって改易された会津藩が青森県下北半島において斗南藩として再興された際は、斗南藩士としてこの地へ移住し、ここで篠田やそと結婚、のち高木時尾と再婚をしています。時尾との間には3人の息子も誕生しています。

この頃、名前を藤田五郎と改めた斎藤一は、1874年に東京に移住して警視庁に採用されます。その後は内務卿警視局で警部補となり、1877年の西南戦争に従軍・活躍し、戦後に勲七等の勲章を受けました。
大河ドラマ「八重の桜」や、映画化された話題になった「るろうに剣心」では、この頃の斎藤一の姿が描かれてますね。

その後、斎藤一は陸軍御用掛を担当し、のち再び警視庁に戻ると警部まで昇進し1892年に退職します。晩年には1898年まで東京高等師範学校の守衛と撃剣師範を務め、1909年まで東京女子高等師範学校の庶務と会計の仕事を担いました。

斎藤一のその後は、新選組時代の華々しい活躍とは違った、堅実な人生だったと言えそうですね。1915年に胃潰瘍のため72歳で亡くなったその最後は、座禅姿だったと言われています。

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この記事のまとめ


斎藤一の新選組時代の役職やその強さ、その後の人生についてご紹介しました。

幕末「泣く子もだまる新選組」と恐れられた剣術家集団にあって副長助勤という役職にあり無敵の剣ともいわれた斉藤一は、明治時代を行き抜いて天寿を全うしました。
こまで長命したという事自体が斉藤一の強さをもっとも物語っているように感じられます。

彼の人生は、新選組隊旗の「誠」に恥じない生き様だったと言えるでしょう。