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石田三成の軍師として名が知られている武将・島左近。彼は関ヶ原の戦いで奮闘したことでも注目を集めています。島左近とはどれくらい強い武将だったのでしょうか。今回は関ヶ原の戦いとその前哨戦である杭瀬川の戦いにスポットを当て、島左近の強さについて解説していきます。
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島左近の関ヶ原の戦い本戦における奮戦ぶりとは


関ヶ原の戦いが起こると、島左近は石田三成隊の先鋒として最前線に出陣し、黒田長政隊や田中吉政隊といった猛者たちと刃を交えます。兵力では東軍におとる石田隊でしたが、左近の的確な采配により、迫りくる両隊を退けることに成功しています。

その一方で、小早川秀秋隊の裏切りにより西軍が劣勢になると、左近はわずかな手勢を率いて自ら戦線に飛び込み、黒田隊や田中隊へ突撃をかけます。死を恐れずに何度も突撃を繰り返す左近の働きは狂気じみており、関ヶ原の戦いの後は「鬼左近」と呼ばれ、その奮闘が語り継がれました。


そんな島左近の最期について二つの説があります。

・黒田長政隊の鉄砲隊に銃撃され、負傷。その後死去した。
・黒田隊の銃撃による負傷により一時本陣に下がるものの、西軍総崩れを知るや否や再び討って出て、敵(黒田隊もしくは田中隊)の銃撃により討死した。



もっとも、左近はその遺骸が見つからなかったため、どのような最期を遂げたのか正確にはわかっていません。ですが、いずれにせよ鉄砲で貫かれるその時まで鬼神のごとく奮戦をしたということでしょう。左近と対峙した黒田隊の将兵は、戦後数年に渡って「鬼左近」を夢に見て苦しんだと伝えられています。

※参照:関ヶ原の戦いの西軍の武将について。敗因や勝っていたらも予測!

関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いについて


島左近が指揮した杭瀬川の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦と呼ばれています。
この戦いはどのような経過をたどったのでしょうか。

関ヶ原の戦いを控え、徳川家康が美濃赤坂に到着すると、西軍の兵は動揺を覚えます。左近は戦に勝利することによって動揺する兵を鼓舞し、西軍の士気を高めようと考えました。そして500名ほどの兵力を率いて東軍の中村一栄隊・有馬豊氏隊に戦をしかけます。
これがいわゆる杭瀬川の戦いです。

杭瀬川家康がいる赤坂と三成がいる大垣の中間に位置する川であり、左近はそこに伏兵を忍ばせます。左近は中村隊の前で稲刈りをするという挑発行為を行い、それに逆上した中村隊と少し遅れて小競り合いに加わった有馬隊を、退却を装いながら杭瀬川までおびき寄せ、予め用意しておいた伏兵によって叩きました。左近の策略によって到着した明石全登隊の参戦もあり、中村・有馬両隊は大被害を蒙ります。
杭瀬川の戦いに勝利した西軍は、左近の読み通り士気を回復します。

一説によると、この戦いで手ごたえを得た左近は、小西行長や島津義弘とともに家康本陣に先制攻撃を仕掛けるように進言します。しかし、この案は石田三成によって却下されました。もし、左近の進言が受け入れられていたら関ヶ原の戦いの様相が変わっていたかもしれませんね。

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島左近はどれだけ強い武将だったのか


関ヶ原の戦いやその前哨戦である杭瀬川の戦いで奮闘をした島左近ですが、あらためてその強さを検証してみましょう。

左近の武将としての力量を考える前に、まずはその経歴に着目してみます。島左近の経歴は諸説ありますが、当初は河内国の守護である畠山氏に仕え、20代半ばごろから筒井家に仕えてます。畠山氏の家臣時代には三好長慶と戦い、敗北したという記録が残っているものの、筒井家の家臣時代には松永久秀と戦い、まだ幼少の筒井順慶を盛り立てていたと言われています。その働きぶりは、当時筒井家に仕えていた松倉右近という武将と共に「筒井家の右近左近」と呼ばれていたという説があります。

しかし順慶の死後、跡を継いだ筒井定次とは相性が合わず、そのため1588年には筒井家を出奔しています。浪人となった左近でしたが、彼のもとには蒲生氏郷や豊臣秀長といった武将から、仕官の話が数多く舞い込んだと言われています。このことからも、左近の強さや働きぶりは、当時の大名に一目置かれていた事は確かだった事でしょう。

その後、時期ははっきりしないものの、左近は石田三成に破格の待遇で仕官したと言われています。石田家においても左近の存在は大きかったようで、「三成に過ぎたるもの(三成にはもったいないもの)」とまで言われました。三成の家臣となった後は三成に付き添って朝鮮に出兵するとともに、家康の暗殺を計画するなど、主に軍事面で三成を支えています。

こうした事跡から、島左近の強さは歴代の主君には大きな助けになったと言えそうです。
また、筒井家に仕えていた時期は内政面でも力を発揮したとも言われている事から、彼を家臣に加えたかった大名たちの気持ちも分かる気がします。

※参照:石田三成は戦下手?忍城攻めや関ヶ原の戦いから検証!

この記事のまとめ


島左近について、関ヶ原の戦いでの奮戦や実際の強さについて解説しました。

関ヶ原の戦いで石田軍の先鋒として戦った島左近は、刃を交えた黒田軍や田中軍を悪夢に突き落とすほどの奮戦を見せました。また、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いでは、見事な策を講じることによって東軍に損害を与えるとともに、西軍の士気を向上させています。

なお、石田三成に仕官する以前の島左近は筒井家の大和統一に貢献する働きをし、三成に仕官した後も主に軍事面で三成を支えました。島左近とは、武勇・軍略ともに優れた、まさに戦いに生きた男と言えるのではないでしょうか。

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