豊臣秀吉の腹心として五奉行の地位にまで上り詰めた石田三成

彼は知略にたけ、主に兵站や内政面で活躍した武将として知られています。一方で、戦下手であったという評価がありますが、その評価はどこから生まれたものであり、果たして本当なのでしょうか。

三成が指揮したとして有名な忍城攻めと関ヶ原の戦いに着目し、戦における三成の指揮能力について探ってみましょう。

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石田三成は戦下手だったのか?


そもそも、三成の戦下手という評価はどこからきたのでしょうか。

官吏としてのイメージが強い三成ですが、実は戦で武功を挙げたこともあります。江戸時代に書かれた『一柳家記』という資料によると、羽柴秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で、三成は柴田・佐久間軍の奇襲部隊を見破るとともに、一番槍の功名をあげたというのです。一番槍とはその戦の中で敵武将を最初に討ち取ることです。つまり、若きころの三成には武勇もあったと言えるのではないでしょうか。

※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?

また、秀吉の主だった戦である四国征伐や九州征伐、文禄・慶長の役では、直接的に軍を指揮することはなかったものの、兵站関係で目覚ましい活躍をみせています。これらから、三成は戦を指揮する経験はもともと少なかったと言えます。


そんな三成ですが、自身が指揮した戦が2つあります。
忍城攻めと関ヶ原の戦いです。

こちらの戦はいずれも石田方が敗北しています。三成は戦下手であるという評価は、指揮官として出陣し、敗北した2つの戦に原因がありそうですね。

では、この2つの戦を詳しく見てみましょう。

石田三成は忍城攻めに失敗したから戦下手!?


忍城は北条氏の支城であり、忍城攻めとは豊臣秀吉の小田原城攻めに伴って勃発した戦のことで、2012年に公開された映画『のぼうの城』でも知られる戦です。
そして、この忍城攻めの指揮官として任命されたのが石田三成でした。

忍城は沼や河川といった地形を活用した攻めにくい城で、1574年にはあの上杉謙信の攻撃を防いた事でも知られています。そんな忍城に対して、三成は水攻めにすることを提案します。

三成は「石田堤」という堤防を作り、利根川の水を用いた水攻めを開始します。ところが、忍城はその地形から水攻めに適さず、堤防の破壊などの抵抗も加わって、沈むことはありませんでした。水攻め失敗の後、浅野長政、大谷吉継といった武将とともに総攻撃を仕掛けますが、これも城主の成田長親の奮戦の前に失敗してしまいます。

※参照:大谷吉継の奉行としての能力について。武将としての活躍にも迫る!


その後、忍城は北条氏の支城でありながら、北条氏の本拠地である小田原城が開城した後も抵抗をつづけ、最終的には自身にとって有利な条件で開城することを秀吉に承諾させます。三成はこの忍城攻めに失敗したため、「戦下手」のイメージがついてしまったようですね。

ただ、水攻めについては三成ではなく秀吉の案であったという説もあるので、「三成=戦下手」と安易には言えないのではないでしょうか。

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関ヶ原の戦いにおける石田軍の奮戦について


忍城攻めで戦下手のイメージがついてしまった三成ですが、天下分け目の関ヶ原の戦いではどうだったのでしょうか。

関ヶ原の戦いにおいて、三成は笹尾山という要所に約6900人の兵力を率いて布陣します。石田軍は黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・田中吉政といった名将たちに幾度となく攻められます。


しかし、石田軍は三成の家臣である島左近や舞兵庫、蒲生頼郷らの奮戦により、何度も持ちこたえます。特に島左近の働きは東軍兵士たちの間でも語り草になるほどで、江戸時代に書かれた『常山紀談』という資料によると、黒田軍の兵士たちは数年に渡って左近の夢を見てうなされたそうです。

結果的に、松尾山に布陣していた小早川秀秋の参戦もあり、石田軍は壊滅。
島左近や舞兵庫、蒲生頼郷ら三成の重臣もことごとく討死してしまいます。

関ヶ原の戦いで三成は敗軍の将になってしまいますが、もともと劣勢であった戦を持ちこたえたことを考えると、戦下手というイメージとは少し離れるかもしれません。
また、小早川秀秋が東軍に味方する事がなければ、石田軍ももう少し持ちこたえ、三成が戦下手と言われる事はより少なくなったのではないかと思います。

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この記事のまとめ


戦下手という不名誉な評価を与えられた石田三成
その評価の出どころと、実際の腕前については以下の通りにまとめることができます。

・石田三成は兵站関係での活躍が多く、もともと戦を指揮した経験が少ない。そのため、石田三成の「戦下手」のイメージは、三成が指揮した忍城攻めと関ヶ原の戦いに原因があると考えられる。
・忍城攻めでは水攻めと総攻撃も失敗に終わる。これが三成の戦下手という評価の出所である
・石田三成は関ヶ原の戦いで劣勢にあるにもかかわらず、家臣たちの奮戦により持ちこたえた



確かに戦上手ではなかったのかもしれませんが、忍城攻めに失敗ことで「戦下手」と印象づけられてしまった三成は、何だか気の毒に感じられます。
また、関ヶ原の戦いでは奮戦したものの、結果として負け戦になってしまったので、戦下手の印象がさらに強まってしまったのかもしれませんね。


ちなみに、以下の記事では石田三成の2つの家紋について解説しています。関ヶ原の戦いで石田三成が使ったとされる「大一大万大吉」ですが、実は家紋ではありません。
詳細は以下の記事をどうぞ^^

※参照:石田三成の家紋の意味や由来を解説。