関ヶ原の合戦での裏切りが有名な小早川秀秋ですが、実は何度も改名を繰り返しいくつかの城主を経て小早川秀秋となりました。

力のある大名ではこの時代珍しくないことですが、秀秋は豊臣秀吉の正室・ねねの甥であったことから秀吉の養子となりその天下統一の渦に巻き込まれていきます。


この記事では、秀秋が城主を務めていた亀山城、名島城、岡山城の3つを、その生涯とともに振り返ります。

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小早川秀秋の居城でもあった亀山城を建てたのは?


現・京都府亀岡市荒塚町にあったとされる亀山城

元々は明智光秀が丹波統治の拠点として築いた城でしたが、本能寺の変の後明智光秀が豊臣秀吉によって討たれると今度は秀吉の重要拠点として治められることになります。

3歳で義理の叔父である秀吉の養子となった辰之助が元服して秀俊と改名した翌年、豊臣家の継承権を持つ者としてこの丹波亀山城10万石が羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)に与えられました。


なお、亀山城は江戸幕府からも重要視されており、主に譜代大名がこの城の城主を務めています。

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秀秋の養父・小早川隆景が造った名島城


福岡県福岡市東区にあったとされる三方を海に囲まれた名島城は、もとあった城を水軍の本拠として使えるよう毛利氏の重臣であった小早川隆景が大改築した筑前にある城です。

この隆景は豊臣秀吉の五大老の一人に任命され、秀吉の信頼も厚かったため子供のいなかった彼は秀吉の養子である羽柴秀俊を小早川家の養子として迎えます。

表向きは養子縁組でしたが、秀吉に実の子秀頼が誕生したことで豊臣家の跡取りであった秀俊(のちの秀秋)はこの九州の地に厄介払いされたと見られています。


実はこの少し前、秀俊と同様秀吉の養子で豊臣家の継承候補者であった秀次が、秀吉に疎まれ切腹を命じられ晒首になった事件のとばっちりを受けて、秀俊も亀山城を没収されていました。

※参照:豊臣秀次ホントに有能?生きていれば豊臣政権はどうなった?


しかしこの養子縁組で小早川家の家督を継いだ秀俊は、小早川秀秋と改名し、今度はこの名島城当主となったのです。
その石高は30万7千石と、かなりの大きなものでした。

しかし、秀俊は朝鮮出兵での失態を咎められ名島城を没収されていまいます。
越後北ノ庄15万石に転封されましたが秀吉の死後、家康の計らいで1599年に名島城に復帰しました。


なお、名島城は江戸時代に黒田長政によって破却され、現在は近隣の名島神社が当時のなごりを伝えています。

関ヶ原の合戦での論功行賞として与えられた岡山城


その後の関ヶ原の戦いでの功績を認められ、家康からかつての宇喜多秀家の所領であった、岡山藩55万石と岡山城を与えられました。

一躍大大名となった秀秋は名前を小早川秀詮と改め、ここにあった岡山城の外堀を強化するなどの改築を施し晴れて岡山城主となりました。

関ヶ原の戦いからわずか2年後に21歳という若さでこの世を去るまで秀秋はこの岡山城で過ごし、城郭や城下町の整備を行ったと言われています。


秀秋の死後、岡山城には池田輝政の次男、忠継が入り、江戸時代を通して池田家が代々この地を治めました。

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この記事のまとめ


明智光秀が築いた重要ポイントとしての機能を果たす亀山城。
光秀がまさかの謀反を起こしたことで思いがけずこの城主となった秀秋でした。

しかし秀秋は、身に覚えのない罪で秀吉から亀山城を没収されてしまいます。ただ当時の秀秋は小早川家に養子として迎えられたことで、今度は筑前の名島城主となりました。

その後、関ヶ原でのあの有名な寝返り事件によって得た功績で家康から岡山城を与えられ50万石の大名となりましたが、わずか21歳で死去。跡継ぎもいなかったため小早川家は改易されてしまいました。

※参照:小早川秀秋の関ヶ原での裏切りの真相とは?


豊臣秀吉の養子となった時から、天下統一の余波に巻き込まれる運命となった小早川秀秋。
いくつもの改名と3つの城の城主を経て成長していく秀秋でしたが、あの運命の関ヶ原の合戦後21歳という若さでこの世を去りました。

実力が伴っていない城主と言われている秀秋ですが、実は城下の領内の検地を実地したり、寺社の復興や農地整備にも取り組むなど領民から慕われる武将であったとも伝えられています。