宇喜多秀家と言えば、26歳で五大老の一角を担った事で知られる人物ですが、その武将としての能力はどの程度あったのでしょうか。

また、秀家時代の宇喜多家と言えば、お家騒動である「宇喜多騒動」によって家中が真っ二つに分裂した事でも知られてますが、その原因は一体どこにあったのでしょうか。

家臣団についても見ていきながら、秀家の能力について迫っていきたいと思います。

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宇喜多秀家の武将としての能力はどの程度だったのか?


まずは宇喜多秀家の武将としての能力を見ていきましょう。

秀家が父である宇喜多直家から家督を継いだのは、1582年の10歳の頃です。その後は、叔父である宇喜多忠家が代理として秀吉の軍に参加し、直家からの重臣が補佐として支えました。

その後の秀家の戦歴ですが、紀州征伐や四国、九州征伐、そして小田原合戦に参加しています。また、朝鮮出兵では大将、関ヶ原の戦いでは副将として参戦し、豊臣方の一員として重要な役割を担っています。

※参照:宇喜多秀家が秀吉お気に入りだった理由を母や妻などから検証


一見華やかに見える秀家の戦歴ですが、これは秀家個人の能力が高いというよりは、むしろ先代である直家の頃からの重臣の力が大きかったと思われます。個人的な意見としては、秀家の武将としての力はそこまで高いとは思えません。

ただ、いずれの戦いにおいても宇喜多軍は奮戦しており、これを秀家の大将としての力量の1つと考える見方もあると思います。関ヶ原の戦いの時点でも秀家はまだ20代。年齢を重ねていけば、秀家の武将としての能力はより開花した気もします。

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宇喜多秀家に仕えた家臣にはどのような人物がいたのか


その一方で、秀家の大名、領主としての能力には疑問が残ります。

まだ年若い君主である秀家が宇喜多家を維持していくためには家臣団の活躍が不可欠だったのですが、そんな彼らを秀家は上手くまとめ切れませんでした。


では、秀家に仕えた家臣にはどのような人物がいたのでしょうか。
主だった武将をご紹介していきます。


まずは、秀家の代わりに軍を率いていた宇喜多忠家です。忠家は、直家の弟で、直家を支えました。天正6年の上月城の戦いでは総大将として毛利軍と共に尼子軍が籠城する上月錠を攻めました。秀家に代替わりしてからは、秀家を補佐し、戦では陣代として活躍し、文禄元年の朝鮮の役では軍の総帥を務めた秀家の後見役として朝鮮に渡っています。

そんな忠家の嫡男として生まれたのが宇喜多詮家です。詮家は後述するお家騒動後に坂崎直盛と名乗りました。秀家は従弟である秀家とは折り合いが悪く、後述するお家騒動後に徳川家の預かりとなり、関ヶ原の戦いでは東軍として参戦。その功績が認められて初代津和野藩藩主となりました。

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忠家と共に秀家を支えたのが長船綱直です。武功よりも内政手腕に優れ、文禄3年、伏見城普請において普請奉行を務め、宇喜多家の両国の国政を担い、領内検知などにより主家の財政問題を解消しました。ただ、綱直は宇喜多家中では進歩派の一人であり、守旧派である戸川達安と対立。後述する宇喜多騒動の一員になったともいわれます。

同じく進歩派の一人である中村次郎兵衛は、秀家の正室豪姫と共に宇喜多家に仕え、大阪屋敷家老になった人物です。経理や土木築城技術に優れていたために秀家に重用されましたが、長船綱直と共に宇喜多詮家や戸川達安などと対立し、お家騒動を引き起こし、慶長5年には大阪で襲撃を受け、前田家に帰参しました。関ケ原後に豪姫が前田家に戻ってからは豪姫に仕えたとされます。

お家騒動後、多くの直家以来の重臣が宇喜多家を去ってしまい、その後宇喜多家を取り仕切ったのが、大坂の陣において真田信繁と共に大阪5人衆に数えられた明石全登です。秀家の家臣であったにもかかわらず、秀吉の直臣として知行をもらっていたとされ、関が原でも活躍しましたが、小早川秀秋の裏切りにより配送し、主君である秀家を逃がすために殿軍も務めました。
関ヶ原の戦いの後は、秀家と連絡が取れなくなり、宇喜多家を離れ、大坂の陣に参加し、その後の消息は不明となっています。

※参照:大坂五人衆とは?大坂三人衆や大坂七人衆という言葉も?

宇喜多秀家の運命を変えた!? 宇喜多家のお家騒動とは


秀家の父親、宇喜多直家の頃は一枚岩としてまとまっていた宇喜多家ですが、秀家の代になると「宇喜多騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発してしまいます。

一体どのような出来事だったのでしょうか。

1599年に勃発した宇喜多騒動は、宇喜多家の保守派の重臣である戸川達安・岡利勝らが、秀家の側近であった中村次郎兵衛の処分を迫り、これを秀家が拒否した事により起こりました。

さらに、翌年には中村が大阪で襲われ、中村は前田家に戻り、戸川や岡らが大阪屋敷を占拠するという事態にまで発展しています。


秀家は、これらの騒動を収める為に首謀者である戸川達安の暗殺を図ろうとしましたが、秀家と対立していた一門衆の宇喜多詮家が戸川を自邸へ招き、立てこもり、両者は一触即発の危機にまで発展してしまいました。

騒動の鎮圧には大谷吉継と徳川家康の家臣である榊原康政が行いましたが、秀家と戸川らの対立の解消は解消されずに、結局は家康自身による裁断によって宇喜多家の内乱は避けられました。戸川らは他の家に預かり、蟄居処分となりました。


宇喜多騒動の原因はハッキリとは分かっていません。秀家の素行に問題があったという説や日蓮宗とキリスト教の対立といった宗教上の問題、あるいは豪姫の実家である前田家からの家臣の台頭という説があるのですが、いずれも所々で矛盾があり、明確な要因とは言えないようです。

ただ、少なくとも宇喜多騒動によって、それまで宇喜多家を支えてきた数多くの家臣団や一門衆が宇喜多家を去る結果となってしまい、宇喜多家の軍事的、政治的な力は低下しました。
その一方で、先代からの保守派を一掃した事によって、宇喜多家は一枚岩となり、関ヶ原の戦いでの奮戦に繋がったとの見方も出来ます。

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この記事のまとめ


宇喜多秀家の武将としての能力は飛び抜けてはいないものの、大きな失策もありません。全体的には、直家からの重臣や一門衆によって様々な戦場で武功を上げいった武将と言えるでしょう。

その一方で、1599年に勃発したお家騒動を踏まえると、秀家の大名、領主としての能力は凡庸だったと言わざるを得ません。ただ、秀家はまだ20代であったので、今後の経験によってはいい方向へ変わる可能性もあったかもしれません。


個人的に、秀家の能力で特筆すべきなのはその人間的魅力だったと思います。秀家は関ヶ原の戦いの後、落ち武者狩りの対象とされているのですが、その指揮官であった矢野五右衛門という人物に匿われており、その後も前田家や島津家の助命もあって一命を取り留めています。豊臣政権でも家臣に大きく助けられている事から、秀家はつい助けたくなるような人間的魅力あふれる武将だったのだと思いますね。

そんな秀家の八丈島での暮らしを以下でまとめているので、一度ご覧になってみて下さい。

※参照:宇喜多秀家の関ヶ原での奮戦や八丈島での暮らしとは。子孫はいるの?