賤ヶ岳の七本槍の一人として有名な脇坂安治ですが、その特徴として水軍を率いていたという事が挙げられると思います。
特に、朝鮮出兵では李舜臣と戦っている事から、お隣の韓国でも「日本水軍第一の名将」として、その名前は比較的知られています。
また、脇坂安治の関ヶ原の戦いでの「裏切り」の真相や、その子孫についても調べてみました。
脇坂安治と李舜臣は「水軍の名将」という共通点がある!?
賤ヶ岳の七本槍の一人として有名な脇坂安治ですが、その特徴として水軍を率いていたという事が挙げられると思います。安治は九州征伐や小田原征伐、そして朝鮮出兵などで水軍を率い、秀吉の天下統一に貢献しました。
脇坂安治と水軍と言えば、朝鮮出兵における李舜臣との対決には必ず言及すべきでしょう。
この2人は、同じ水軍を率いていた名将という共通点があります。
※参照:豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由は?名護屋城やその結果について
脇坂安治は文禄の役の際、はじめ海上輸送を担当していたのですが、李舜臣の朝鮮水軍を抑えるため、急遽九鬼嘉隆、加藤嘉明と連合艦隊を編成します。文禄元年7月、戦功を逸る脇坂安治隊は、単独行動中に李舜臣の海軍に遭遇し、誘因の計により大敗します。
そこで秀吉は戦術の転換を命令し、水軍のみによる会戦を避け、陸戦部隊と連携させることで朝鮮水軍に対抗します。
その一方で、李舜臣は朝廷の派閥争いによって度重なる讒言を受け、文禄の役の終わり頃には朝鮮王朝より利敵行為を糾弾され、水軍の指揮権を剥奪されるばかりか、危うく刑死寸前まで追い詰められてしまいます。
李舜臣が再び水軍の指揮権を取り戻した時の朝鮮水軍の状況は、当時水軍を率いていた元均が大敗した直後であり、残された兵船は実に12艘という壊滅的状況でした。
この状況の中、李舜臣は朝鮮水軍を再建し日本軍を撃退します。彼はこの戦役末期に戦死しますが、戦後は最大級の勲功を認められ、一躍英雄として語り継がれる存在となりました。
また、李舜臣を扱った映画に『バトルオーシャン』『不滅の李舜臣』という作品があるのですが、その中では脇坂安治が悪役として登場しています。その中で安治は「日本水軍第一の名将」として描かれているため、お隣の韓国でも安治の名前は少なからず知られています。
文禄・慶長の役で、明・朝鮮連合軍がもっとも警戒したのは加藤清正でした。それにも関わらず、上述の映画において悪役の親玉として描かれているのは脇坂安治です。李舜臣の朝鮮水軍が脇坂安治率いる日本水軍を粉砕するシーンに韓国人が快哉を叫ぶ、という図式なのでしょう。
脇坂安治の関ヶ原の戦いにおける裏切りの真相とは?
脇坂安治は、関ヶ原の戦いに西軍として出陣します。
大筋でみると、小早川秀秋の東軍への寝返りに倣って、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らとともに突如として寝返り、大谷吉継隊を壊滅に追い込んだかに見えますが、脇坂安治に関して言えば、これは「裏切り」ではなく、予定された筋書きどおりの行動に過ぎませんでした。
※参照:小早川秀秋の関ヶ原での裏切りの真相。陣取った松尾山とは?
安治は、関ヶ原の前から徳川家康に接近をしており、秀吉亡き後に前田利家と徳川家康が対立した折には徳川邸警護のために駆けつけています。
会津征伐には息子・安元を派遣しようとし、関ヶ原の戦いも当初から東軍に与しようとしますが、いずれも石田三成方の妨害によって果たされませんでした。
また、脇坂安治は、友人の山岡景友を介して家康に自身の素志を伝え、家康も理解を示していました。戦後、安治と共に寝返った朽木、小川、赤座の三将は、事前に裏切りを通達しなかった事で減封もしくは改易されているのですが、安治は事前に徳川方に味方する事を告げていました。
このことが、安治と他の三将との命運が異なる大きな分岐点になったと言えます。
関ヶ原の戦いを西軍の立場から見ると、安治ら4将の行動は「裏切り」と言えるのかもしれません。しかし今日の価値観を物差しに、この時代の人びとを測ることはできないでしょう。
脇坂安治という人を見つめると、臨機応変に己の信ずる道をひた歩きに歩いた人、という印象が拭えません。流転の末に仕えた秀吉に尽くした時期。淡路を治めた縁で九鬼氏に水軍を学んだ時期。朝鮮出兵では水陸両用軍のように働き、秀吉が去った後の大局も見極めることができました。そのような彼の資質はどうやって得たものかわかりませんが、大筋、子々孫々に受け継がれたように感じます。
脇坂安治の子孫たちは、その後どうなったのか?
では、脇坂安治の子孫たちは、どのように世を過ごしたのでしょうか。
安治の後継は、次男・脇坂安元でした。2代・安元は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍するなど豪傑の一面を思わせる反面、当時の武家髄一の歌人であるとともに、林羅山に儒学を学ぶなど教養人としても名を馳せました。
この安元には子がなく、そのため一計を案じて、三代将軍・家光の信任厚い堀田正盛の次男・安政を養子にと願い出て許されています。
安元の跡を継いだ3代・脇坂安政は、脇坂家を外様から譜代に扱いを変えるように幕閣に働きかけ、これを許されています。その跡を継ぐ4代・脇坂安照は、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に切りかかった刃傷事件の結果切腹となり浅野家が断絶すると、赤穂城受け取りの正使となりました。
時代が下って10代・脇坂安董は寺社奉行を2度歴任し、さらには老中に抜擢されています。元来、外様の家格である脇坂家から奉行や老中が出るというのは当時としても相当異例であったに違いありません。この脇坂安董は奉行としても名裁きを行い、将軍・家斉の信任も厚かったといいます。
その子である11代・脇坂安宅の時代には、父安董の功績により正式な譜代大名となっていました。安宅も寺社奉行、京都所司代、老中と歴任します。
12代・脇坂安斐の時代に、脇坂家は明治維新を迎えます。脇坂家の幕末は、譜代らしく佐幕藩として長州征伐にも加わりました。のち、勤王に転じ、戊辰戦争では新政府軍に与して越後に出兵しました。
この方針転換に、関ケ原の合戦における安治の行動をひきあいに出し揶揄する声もあったといいます。しかし、おそらく泉下の安治は、それでよいのだ、と考えているに違いありません。結果、脇坂家は現代にいたるまで存続しています。
この記事のまとめ
脇坂安治と李舜臣の関係や関ヶ原の戦いにおける「裏切り」とされる行動、そしてその子孫についてご紹介しました。
脇坂安治は、同じ賤ヶ岳の七本槍である加藤清正や福島正則、あるいは豊臣恩顧の大名の中で家康と親しかった黒田長政や藤堂高虎と比べると、やや地味な印象を感じます。しかし、然るべき場面できちんと戦功をあげており後世まで家名を残したことを考えると、彼もまた戦国時代を代表する名将の一人と言っても差し支えはないでしょう。
ちなみに以下の記事では、脇坂安治以外の賤ヶ岳の七本槍の武将たちについて解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?