戦国時代の北奥羽で暗殺を繰り返し下剋上の果たし梟雄として名高い津軽為信
その一方で、石田三成を通して早くから秀吉に臣従しただけでなく、その恩義を忘れなかったという逸話も残されています。

三国志で義に厚い名将との誉れ高き関羽への強い憧憬から、立派な髭をたくわえ「髭殿」とも呼ばれた津軽為信について、歴史のヴァガボンドを自認する私が紐解いていきたいと思います。

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津軽為信が豊臣秀吉に臣従した背景について


津軽為信の生きていた時代、日本では豊臣秀吉による中央集権による支配が確立しつつありましたが奥羽ではまだ豊臣政権の威光が十分に届いていませんでした。

中央の情報がなかなか地方に行き届いていない状態の中、津軽為信の主家で、当時北奥羽で大きな勢力を持っていた南部氏に後継争いが勃発します。24代目の当主である南部晴政には実子がいなかったので、甥の南部信直を1565年に養子に迎えていたのですが、その5年後、晴政に実質の晴継が誕生し、この2人の仲は険悪になってしまいました。豊臣秀吉と秀次の関係に似てる気がしますね。

※参照:豊臣秀次ホントに有能?生きていれば豊臣政権はどうなった?


その際、南部氏の一族であると言われる為信は、この混乱に乗じ、信直の父親である石川高信を攻め、その実力でもって津軽地方を支配下とし掌握し独立を果たすのです。
まさに下剋上ですね!

この時、主君を裏切り暗殺を繰り返したことが、後に「津軽為信=梟雄」というイメージがつく所以となりました。


さらに為信は、津軽地方の領有権を確実なものとするために1585年に上洛を決意。しかし、敵対する南部家などに上洛を阻まれるなど、為信の上洛はなかなか上手くいきませんでした。
4回にも及ぶの上洛失敗の後、1589年には家臣を豊臣秀吉の元に上洛させることに成功。豊臣政権を切り盛りしていた石田三成を介して名馬と鷹を献上し、本領安堵に漕ぎつける事に成功します。

※参照:伊達政宗の小田原合戦への参陣。伊達家と北条家の関係は?

石田三成の関係から見える、為信の義理堅さとは?


為信が上洛の際に仲介役となったのは、秀吉の懐刀とも言われる石田三成でした。
この2人の関係は、その後も良好だったと言われています。

当時、父の仇でもある為信を、裏切り者として疎んでいた南部信直は、秀吉の重臣である前田利家を介して「為信は秀吉の惣無事令の違反者である!」と秀吉に諫言したため、為信は一時期、討伐の対象にされかけた事があります。

これを秀吉に取りなしたのが秀次、織田信雄、そして三成でした。その背景には、秀次や信雄、そして秀吉が鷹狩りが好きだという事を聞きつけた為信が、津軽地方の鷹を送った事にあったと言われています。織田信雄は喜んだようで、為信に対してお礼の手紙を送ったと言われています。

時の権力者に鷹をプレゼントし、あるいは石田三成の計らいで事なきを得た為信は、名実ともに大名としての地位を確立し、その智謀と実績から全国に名を知られる存在となりました。


冷血な官僚のイメージが強い石田三成ですが意外にも好人物だったのですね。
いや冷血と梟雄、嫌われ者同士結構ウマが合っただけかも?


また、為信が後に津軽藩の初代藩主となった際に居城とした弘前城で、守り神であるお稲荷様の開かずの厨子に、なんと豊臣秀吉の木像を祀っていたことが明治になり判明しています。
「裏切り者」いう印象とは裏腹に、利害よりも正義を重んじる人物だったのですね。

だてに「髭殿」と呼ばれてない訳です。三国志でも有名な名将、関羽の名に恥じない生き様をしようということでしょうか?

某歴史シミュレーションゲームでは「義理」のパラメータが3(MAXは100です!)しかないことから「ギリサン」と蔑まれている為信ですが、今後の汚名返上を期待したいですね。

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関ヶ原の戦いにおける津軽為信の決断と、三成への恩返しとは?


栄華を極めた豊臣政権も秀吉の死によって斜陽が訪れます。
徳川家康の陽動に嵌まり挙兵した石田三成。

そして世に名高い「関ヶ原の戦い」が始まります。

これが為信にとって、いや津軽氏にとっても重要な転換点となります。

真田氏や九鬼氏が一族を存続させるために親子兄弟が東軍西軍に分かれたことは有名ですが、実は為信の津軽氏も同じ策を採用しています。
周辺の勢力が全て東軍についたため、為信も家康率いる東軍に属しますが、その一方で秀吉の小姓だった嫡男の信建(のぶたけ)を西軍に属させ、津軽家の生き残りをはかります。

結果的に石田三成率いる西軍はあっけなく壊滅しますが、津軽氏は為信のこうした策により一族の生き残りに成功しています。
為信の時流を見る目は確かだったのでしょう。

しかし関ヶ原の戦いの後、為信にとって意外な出会いが訪れます。

なんと嫡男の信健が、石田三成の遺児で同じ小姓仲間である石田重成と、その妹の辰姫を津軽に連れて帰国してきたのです。為信はさぞ驚いたことでしょうが、その後、徳川家康には秘密でこの2人を迎え入れ厚く遇するのです。
発覚すればお家取り潰しにもなりかねない事態ですが、生前の石田三成の恩義に報いようとしたのでしょうか。

その後、石田重成は杉山源吾と名乗り、その子孫は弘前藩の重臣となりました。
また辰姫は、信健の弟で2代目藩主となる津軽信枚の妻になっており、3代目藩主となる津軽信義を産んでいるのです!

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この記事のまとめ


津軽為信は、主君である南部家を裏切るといった非情な手段も辞さない、まさに「梟雄」として名を馳せた名将でした。そんな為信ですが、あの石田三成も一目置いており、三成の助けもあって為信は豊臣政権のもとで津軽家を存続させる事に成功します。

この恩義に報いるため、為信は三成の遺児2人を自分の領地で匿っています。まさにあの「美髯公」関羽の名に恥じぬ、見事な義を貫いた東北屈指の英雄だと言えるでしょう。


なお、以下の記事では石田三成の子孫についてより詳しく解説しています。興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:石田三成の子孫が青森にいた理由とは?現在の動向も紹介!