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日本ではじめて首相になった伊藤博文という人物を知ってますか?

日本の歴史を学んでいると、必ずと言っていいほど伊藤博文の名前が出てきます。ただ、どんな人物だったのかいまいちよく分からないという方もいるのではないでしょうか。

ここでは「小学生でもわかる伊藤博文」というテーマで、年表や業績をまじえながら詳しく見ていきましょう!
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伊藤博文ってどんな人?小学生むけにわかりやすく解説!


まずは伊藤博文がどんな人だったのか、小学生の方にもわかるようにご紹介します。

伊藤博文は1841年に、周防国(いまの山口県)の農民・林十蔵の長男として生まれます。子供のころ、父が伊藤弥右衛門という足軽の養子になったため、博文も伊藤という名字を名乗るようになりました。

15歳の頃、松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り学問を学びます。先生である吉田松陰からは「すなおな性格で、派手好きでないところが良い」「人の間をとりもつのが上手だから、政治の才能がある」とほめられています。また、当時の流行だった外国人を追い払う運動に加わり、品川のイギリス公使館を焼き討ちしています。この行動にはあの高杉晋作も加わっていました。

※参照:吉田松陰ってどんな人?年表や松下村塾を小学生向けに解説!


しかし、その後イギリスに留学すると、日本も西洋文明を学ぶべきだ、と考えを改めます。明治時代になると、参議や工部卿、兵庫県知事などを歴任しました。木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛といった明治維新のトップ3が世を去ると、政府の中心人物となります。その後、明治憲法を作り初の内閣総理大臣に選ばれるなど目覚ましい活躍を見せます。

この時代、新しく作られた役職には決まって伊藤博文がつきました。この中には、天皇の相談にのる枢密院(すうみついん)の初代議長や、国会の貴族院(きぞくいん)の初代議長、朝鮮におかれた統監府(とうかんふ)の初代統監などがありました。しかし、1909年に中国のハルビン駅で暗殺され亡くなりました。

伊藤博文を一言でいうと、何でもできる万能政治家という言葉が似合うと思います。ただ、決して偉そうな人ではなく、家の周りを散歩して地元の人と話しこんでしまう気さくな面もありました。

伊藤博文の年表を小学生でもわかるように解説!


ここでは伊藤博文の年表を、小学生の方にもわかりやすいように解説します。


・1841年(0歳)  
周防国(今の山口県)の百姓の家に生まれます。

・1854年(13歳)
父が伊藤弥右衛門の養子となり伊藤姓になります。

・1857年(16歳)
吉田松陰の松下村塾に入門。松陰に才能を見いだされます。

・1862年(21歳)
イギリス公使館焼き討ちに参加しています。

・1863年(22歳)
イギリスに留学し、日本も西洋文明を取り入れるべきと考えるようになります。
この4年後に明治維新をむかえます。

・1871年(30歳)
岩倉使節団の一員として欧米諸国を訪問します。

・1878年(37歳)
暗殺された大久保利通の跡をつぎ、内務卿となります。
この時、伊藤博文は名実ともに政府の中心人物になります。

※参照:大久保利通ってどんな人?年表や西郷隆盛との関係を小学生向けに解説


・1885年(44歳)
初代内閣総理大臣となります。44歳での就任はいまだに最年少記録です。
また、第5代、第7代、第10代と計4回も総理大臣に選ばれています。

・1888年(47歳)
枢密院議長となります。

・1889年(48歳)
大日本帝国憲法が公布されます。

・1890年(49歳)
貴族院議長となります。

・1905年(64歳)
韓国統監府の初代統監となります。

・1909年(68歳)
中国・ハルビン駅で韓国人青年に暗殺されて亡くなりました。

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伊藤博文が日本ではじめての首相になれたのは、英語を話せたからだと言われています。当時、外国の言葉が話せる日本人の数は少なかったので、英語ができる伊藤博文のような人物は非常に貴重な存在でした。

そんな伊藤博文ですが、政治家としてたくさんの業績を残しています。
以下でいっしょに考えてみましょう。

伊藤博文が残した業績をまとめてみました!


伊藤博文の最大の業績は、何といっても大日本帝国憲法の制定です。明治時代の日本にふさわしい憲法をさがすため、プロイセン(いまのドイツ)まで行って学者の教えを受けました。

また、大日本帝国憲法が施行される5年前に、伊藤博文は初の内閣総理大臣に就任しています。これは百姓の子が、日本という国のトップリーダーになった瞬間でした。伊藤博文はその後3回も首相を務めており、中国との間に発生した日清戦争で日本を勝利に導きました。

この他にも、現在の日本のお金の単位である「円」を定めた貨幣法と呼ばれる法律を制定したり、殖産興業を推進して日本の産業の育成に力を尽くしたり、あるいは東京の新橋から神奈川県の横浜まで鉄道をしいたという業績も残しています。「教育令」という法律を定めたほか、今では当たり前になっている女性の教育の普及に力を尽くしたのも、この伊藤博文でした。

憲法や内閣が国家の柱なら、経済や交通、学校は社会の柱といえます。伊藤博文が残したこれらの業績は、彼の才能の豊かさをよく表しているものだと思いますね。

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この記事のまとめ


このページでは伊藤博文がどんな人だったのかを、年表や業績もあわせて小学生の方にもわかるように解説しました。

吉田松陰の見立てたとおり、伊藤博文は政治家としての才能を開花させ、明治時代の日本をリードしました。もし伊藤博文が暗殺されなかったら、その後の日本を含むアジアの情勢も変わったかもしれませんね。

なお、以下の記事では若き日の伊藤博文に強い影響を与えた高杉晋作について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:高杉晋作ってどんな人?年表や奇兵隊を小学生向けに解説!