石田三成といえば、関ヶ原の戦いにおける西軍の事実上の総大将として知られており、戦後は敗軍の将という事で処刑されています。
その際、父や兄などの一族の多くも討死しているため、三成の子孫はいないのではないか?と思われている方も多いようです。
しかし実は、三成の子孫は江戸時代を通してその血脈を青森県にて伝えており、現在でもしばしば彼の子孫に当たる方がニュースに登場することもあります。
この記事では、石田三成の子孫が青森県でその血脈を伝えた背景や、彼の子孫に当たる方の履歴を、ニュースなどをもとに紐解いていきたいと思います。
石田三成の子孫が青森にいた理由とは?
関ヶ原の戦いの際、三成をはじめとする石田一族の多くが討死している一方、三成の子孫はその血脈を、なんと青森県にて江戸時代を通して伝え続けてきました。
なぜ青森県なのでしょうか。
それは、今の青森県の西部を治める弘前藩の藩祖・津軽為信が、三成の次男である石田重成と、その妹にあたる辰姫を救い出し、自分の領地にて匿っていたからです。
関ヶ原の戦いの後、津軽為信は当時大阪城にいたこの2人の子供を密かに救い出し、重成を青森へ、辰姫を上野国(今の群馬県)にて保護します。
そしてその後、辰姫が成人すると、為信は次男の津軽信枚に辰姫を側室として嫁がせます。
この2人の間には嫡男にして、弘前藩第3代藩主である津軽信義が誕生。
この津軽信義には30人以上とも50人以上ともされる子供が産まれたとされているのですが、これを別の角度から見ると、三成の子孫は弘前藩=青森に多く居たと考えることが出来ますね。
また、三成の次男である石田重成ですが、名前を杉山源吾と改め、同地で隠棲し1641年に死去したとされています。
そしてその長男である杉山吉成は弘前藩に召しだされ、2代目藩主である津軽信枚の娘と結婚。
杉山吉成の家系は江戸時代を通して弘前藩の家老職を努め、幕末に至るまで存続したと言われています。
石田三成の子孫は現在何をしているの?
石田三成の子孫にあたる方は、現在何をされているのでしょうか。
調べてみると、三成の長男・石田重家の系統に当たる子孫の系統が今でも続いている事がわかりました。
現在は15代目の石田秀雄さんという方が当主を務められており、滋賀県の長浜市にて行われる三成を供養する法要、そして関ヶ原にて行われる戦没者供養の法要には毎年参加されているそうです。
三成の長男である石田重家という人物ですが、関ヶ原の戦いの際はまだ10代前半と若かった事もあり、僧侶になる事を条件に助命されています。
石田重家についての公式な記録では、彼には妻子はいない事になっているみたいですが、石田秀雄さんいわく、重家には当時身ごもった妻がおり、その後家康の次男、結城秀康のはからいで彼が治める越前(今の福井県)に移され同地で出産。
その後、彼の子孫は新潟県の妙高にて庄屋(地方の有力者の事)になったと言われています。
石田重家の妻子の有無については公式な記録が無い以上、何とも言えない部分がありますが、もしこれが本当だとすると、関ヶ原の戦いの際に西軍について滅ぼされた大名の子孫も、記録がないところでその血筋を脈々と受け継いでいるケースが少なからずありそうですね。
※参照:長宗我部盛親の関ヶ原や大坂の陣での活躍は?子孫の存在も
石田三成の子孫が経営するホテルが倒産したってホント!?
また、現在に残る石田三成の子孫には別の話題もあります。
2013年、新潟県の妙高市にあった「妙高ホテル」が破産の申請を行ったというニュースが報じられましたが、このホテルの経営者が、あの石田三成の子孫だという事でニュースで話題になりました。
この「妙高ホテル」ですが、かつてはスキー客向けの宿泊施設として人気があったものの、スキー人口の減少や、付近で起きた土砂崩れが原因で温泉の供給がストップした事を機に営業を停止。県に破産を申し出たそうです。
妙高ホテルの経営者である方の名前については分かりませんでしたが、以前開設されていたホテルの公式HPによると、このホテルの経営者の方は先ほど述べた石田秀雄さん同様、三成の長男、石田重家の系譜に繋がる方だそうです。
公式の記録には残されていない、石田重家の妻が産んだ子がこの妙高の地で庄屋になり、その血脈を現在に至るまで伝えられてきたのでしょうね。
この記事のまとめ
「石田三成の子孫」というテーマで、色々なことをご紹介しました。
三成には長男の石田重家、次男の石田重成という2人の息子がおり、2人とも関ヶ原の戦いを生き抜き、青森の弘前藩の家老、そして新潟の妙高の庄屋として、その血脈を現在に至るまで伝えられているそうです。
大河ドラマ「真田丸」の人気や、滋賀県による石田三成のCMの効果で、今後、石田三成の子孫の方をTVやネットニュースなどで見にする機会があるかもしれませんね。
なお、以下の記事では津軽為信がなぜ三成の子供たちを助けたのかについて解説しています。主君である南部家を裏切ったというダーティーな印象が強い為信ですが、これを見ると、津軽為信は案外義理堅い人物だったのでは?と思わずにはいられなくなりますよ。
※参照:津軽為信と石田三成の関係。関ヶ原の戦いの後の恩返しとは?
私は大阪北部の出身で、現在、神奈川県の湘南に住しています。学生時代に大阪の寺院の住職から「亜系だけれども石田三成の末裔の家系だよ。1630年ごろ、この地に落ち延びてきたんだよ。」と聞かされていました。三成から数えて私は17代目になるとのことですが。江戸末期の先祖は石田四右衛門と名乗っていたというのは分っています。枚方の方に関係のある方が居られるようなことも。
それ以上のことははっきり分かりません。
何か情報がありましたら教えて下さい。
自分の母方が対馬性ですが、父と結婚する時に引出物を実家から持って来ましたその引出物に下がり藤の家紋が入ってました、それと大一大万大吉の家紋もありました、
岡山県笠岡市には、石田八郎の子孫が40軒ばかりあります。
三男とされていますが、こちらでは二男だと墓に掘っています。
長男重家・次男とされる青森と笠岡とありますが、
あなたの家系はどの筋でしょうか?
名前だけでは分からないかもね。
先祖が、伝えて来てないのですか?
長男重家の家系か?次男青森の家系か?笠岡石田八郎の家系か?