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「戦国最強」と呼ばれた武田信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼
愚将か、実は有能だったかという評価は話題になりますが、勝頼の家族についてはそこまで知られていない気もします。

そこで今回は武田勝頼の家族というテーマで、その母親、二人の妻、そしてその子孫についてご紹介します。
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武田勝頼の母「諏訪御料人」の生涯とは?


実は武田勝頼の母については不明な点が多く、正確な生年も定かではありません。信玄のもとに輿入れしたのが天文14(1545)年、14歳の時であると「甲陽軍鑑」に記述があって、ここから逆算して享禄2(1530)年生まれとされるのが通説です。

実名についても不明で「諏訪御料人」または「諏訪御前」と呼ばれています。「御料人」または「御前」とは身分の高い女性を指す尊敬語です。「湖衣姫」や「由布姫」という呼び名もありますが、これは後年の小説での呼び名です。

諏訪家は信玄の父、勝頼の祖父・信虎の時代には武田家と同盟関係にありました。しかし信玄の時代になると信虎は信玄に追放され、諏訪家との関係も手切れとなります。天文11(1541)年、信玄は諏訪に侵攻、諏訪頼重ら一族は滅亡しました。はじめは頼重の遺児を擁立して諏訪を統治する目論見でしたが、その後これをやめ、頼重の娘である諏訪御料人を側室として迎え、その男子に諏訪を継承させることとしたのです。

諏訪御料人はその後信玄に輿入れし、躑躅が崎城館に迎えられます。この時、家臣はこの輿入れに反対したと言い、山本勘助が彼らを説得したと「甲陽軍鑑」に記載があります。

天文15(1546)年、勝頼が生まれます。親子は躑躅が崎城館で暮らしたとされています。

弘治元(1555)年11月6日諏訪御料人は亡くなります(天文23年の説もあります)。墓所は長野県伊那市高遠町の建福寺です。長野県岡谷市の小坂観音院にも墓所がありますが、こちらは小説「風林火山(井上靖著)」の影響で現代になって建てられたものです。

諏訪御寮人の人柄などについては不明な点が多く、「甲陽軍鑑」は「隠れなき美人」とその容貌をたたえています。

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武田勝頼の二人の妻はどのような女性だったのか?


武田勝頼には二人の妻がいました。
と言っても、正室と側室ではなく、正室と継室…つまり「後妻」を迎えたわけです。

一人目の妻は、織田信長の娘「龍勝院殿」という女性。
そしてもう一人は北条氏康の娘「北条夫人」という人物です。

それぞれについて詳しく見ていきましょう。

一人目の妻「龍勝院殿」とは?


正室として迎えた「龍勝院殿」は織田信長の娘です。とはいえ、実のところは信長の妹の嫁ぎ先である美濃の国衆・東山直廉の娘、信長から見て姪にあたる女性を養女として迎えたうえで、武田家に嫁がせたものです。

武田家はもともと北信濃をめぐる上杉氏との抗争のため今川氏・北条氏とは同盟関係にありました。しかし、武田氏と上杉氏との抗争が川中島の戦い以降収束し、さらに今川義元が桶狭間で織田信長に敗れて以降の情勢の変化で、武田氏は織田氏と友好関係を結ぶに至っていました。

「甲陽軍鑑」によると、この婚姻を申し出たのは織田側からで、永禄8(1565)年に織田の使者が武田氏を訪れ、その年の11月に龍勝院殿は勝頼に嫁いだとされています。

永禄10(1567)年11月に嫡子・信勝を出産。一部にはこの時に難産でそのまま死去したとされている資料(「甲陽軍鑑」)もありますが、これは誤りであって実際は元亀2(1571)年9月16日に死去しました。

龍勝院殿の勝頼への輿入れは武田氏の外交方針の転換を示すものです。今川と手切れし、織田と「友好関係」を築こうという試みです。しかしこの試みは元亀3(1572)年の段階で手切れとなり、武田と織田の関係は「敵対関係」となります。元亀4(1573)年、信玄は死去し勝頼が跡を継ぎますが、天正3(1575)年の長篠の戦で勝頼は織田・徳川連合軍に敗北します。この後、勝頼は北条氏との「甲相同盟」の再構築を図るのです。

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二人目の妻「北条夫人」について解説。


そこで亡くなった龍勝院殿の継室、後妻として迎えられるのが北条氏康の6女(母は松田殿)でした。名は不明で、一般には「北条夫人」と呼ばれています。

北条夫人が勝頼のもとに嫁いだのは天正5(1577)年です。永禄7(1564)年に生まれた彼女は14歳で勝頼に嫁いだことになります。子はなかったとも言われますが(「甲乱記」)、勝頼の次男・勝親、三男、三女の母であるとも言われます。その人柄を伝える資料は少ないのですが、彼女について「善人といることは、上質の香をたいた部屋に入るようなもの。北条夫人こそ、その善人である」と恵林寺住職・快川紹喜は伝えています。

天正10(1582)年、織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻、家臣の離反も相次ぎ、追い込まれた勝頼一家は天目山に落ち延びます。しかし織田方の滝川一益の軍に発見され、そこで一家は自害しました。北条夫人はその時19歳でした。辞世とされる歌が2首、伝わっています。

黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒
帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の国府(こふ)に落とせよ

北条方の資料「小田原北条記」によると、夫人は自害にあたって「先年、わが弟の越後三郎(景虎)危急の時、私から色々嘆願したにも関わらず、あなたはお聞き入れになりませんでした。今更命が惜しいと、何の面目があって小田原に帰れましょうか…」と語ったと言います。「弟の危急」とは上杉氏の養子として越後にいた実弟・景虎と、上杉景勝の間で上杉謙信の死後起こった跡目争い(「御館の乱」)を指します。勝頼が勝った景勝方と和を結び、景虎は自害に追い込まれました。2首目の歌はこのことに対する北条夫人の思いを歌ったものなのでしょう。

※参照:後北条氏はその後どうなったの?北条家の子孫について解説!

武田勝頼の子孫は今もいるのか?


さて、武田勝頼の子孫の方は今もいらっしゃるのでしょうか?

まず勝頼の子供は諸説あって定かではないのですが、2人の妻との間に4人の子がいたことになっています。まず一人目は龍勝院殿との間に生まれた嫡男・武田信勝です。龍勝院殿との間にはこの信勝以外に子は設けていません。信勝は天目山にて父・勝頼とともに自害しています。

後妻の北条夫人との間には2男1女がいた言われていますが、信勝のほかは女子だった、という説もあります。三男にあたるとされるのが武田勝親。家臣により救われて鎌倉に落ち延び、その後摂津国で出家して僧となったと言われます。資料によると103歳まで生きたとされています。

娘とされている子のうちひとりは望月信永に嫁いだとされています。実子はありませんでした。この娘については、望月信永が長篠の戦で戦死したと言われているため、年代を考えると北条夫人の子ということは考えにくく、龍勝院殿との間の子なのか、または養子である可能性もあるかもしれません。実際、内藤忠興に嫁いだ「香具姫」を娘とする説もありますが、彼女は小山田信茂の娘で勝頼のもとに人質として預けられていたものです。

生き残ったとされる娘の一人が貞姫です。北条夫人との間の子と考えられます。彼女は天目山で一家が自害したのちも信玄の娘である松姫によって助けられ、武蔵国八王子に落ち延びたと言います。その後も松姫に養育され、後に江戸幕府高家旗本・宮原義久の正室となりました。嫡男・宮原晴克を生んでいます。宮原氏は高家旗本として幕末まで続きました。直系ではありませんが、この流れが勝頼の子孫と言えるのではないでしょうか…。

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この記事のまとめ


いかがでしたか?父・信玄と比較され「愚将」とされる武田勝頼の家族の数奇な運命…。

確かな資料が少ないとも思えます。それぞれの人柄を伝えるものがあまりにも少ないと思います。加えて、大きすぎる武田家が迎えようとしていた悲劇の中、勝頼は周辺との同盟と決別を必死に繰り返していたことが、彼の家族の実像をゆがめていると思うのです。

戦乱の世のならいといえばそれまでのことです。しかし、資料に見えないところに夫婦、親子といった結びつきが確かにあったことを信じたいものですね…。

※参照:武田四天王(武田四名臣)は実は8人いた?甲陽の五名臣も?