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あなたは金栗四三(かなぐりしぞう)という人についてご存知ですか?
2019年度大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主役の一人として、歌舞伎役者の中村勘九郎さんが演じることで話題になった人物ですが、どのような事を成し遂げた人物なのかは、あまり知られていないと思います。

今回は、金栗四三がどんな人だったのかを、年度や子孫の有無をまじえ簡単にご紹介します。

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金栗四三がどんな人だったのかを簡単に解説!


まずは金栗四三がどんな人だったのか、簡単にご紹介します。

金栗四三は「日本におけるマラソンの父」と言っても過言ではない人物です。一般的には日本初のオリンピック選手として、また箱根駅伝の創設者として知られる人物ですが、これ以外にも日本陸上競技連盟の顧問を務め。数多くのマラソンのトレーニング方法を開発し、また女性の体育の奨励に貢献するなど、日本のスポーツ界に多大なる貢献を果たしてきた方です。

子供の頃から優秀だった四三は、1910年に東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学。当時、この学校の校長を務めていた「日本の柔道/体育の父」嘉納治五郎に才能を見出された事もあり、オリンピックの予選会に参加。無事通過します。

※参考:嘉納治五郎の父親や妻はどんな人?子孫の有無も解説

しかし、出場したオリンピックで結果を出す事は出来ず、引退後は教師として若者を育成しながら、後進のランナーの指導にも力を尽くしました。


一方で1936年には東京オリンピック招致のために活動するものの、日中戦争の影響によって大会が開催される事はありませんでした。東京五輪の開催は、その28年後に「いだてん」にも登場する水泳指導者・田畑政治らの努力を待たなければいけません。

※参照:田畑政治ってどんな人?水泳や東京オリンピックとの関わりについて


1983年、四三は92歳でなくなります。その功績を湛え、箱根駅伝では2004年よりその年の大会で最も活躍した選手に「金栗四三杯」を送る事が定められました。四三が日本マラソン界に与えた影響は大きく、彼の出身地である熊本では毎年4月に、彼の名を付けた「金栗記念選抜中・長距離熊本大会」が開催されています。

金栗四三の年表を簡単に解説!


ここでは、金栗四三の年表を簡単にご紹介します。


・1891年
現在の熊本県和水町にて産まれる。

・1901年
玉名北高等小学校に入学。
往復12キロにわたる距離を走って通学していた。
この経験が、四三のランナーとしての基礎を築いたと言われている。

・1910年
東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学する。
当時の学長は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎であった。

・1911年
翌年開催されるストックホルム五輪のマラソンの予選に出場。
当時の世界記録を樹立し、日本初のオリンピック選手になる。

※参照:日本のオリンピックの歴史についてわかりやすく解説!

・1912年
ストックホルム五輪に出場するも、途中で日射病で意識を失う。
競技を断念しやむを得ず日本へ帰国する。

・1914年
春野スヤと結婚。6人の子供に恵まれる。

・1916年
神奈川師範学校に教師として赴任。担当科目は地理だった。

・1920年
アントワープ五輪に出場。16位の結果を残す。
第一回箱根駅伝が開催。大会の開催のために尽力する。

・1921年
東京女子師範学校へ赴任。生涯を通して女子教育にも尽力した。

・1924年
パリ五輪に出場するも途中棄権。

・1936年
日本初のオリンピック誘致のために尽力するも果たせず。

・1946年
熊本県体育会を創設。初代会長に就任する。

・1967年
ストックホルム五輪開催55周年記念式典に招待される。
競技場に用意されたゴールテープを切り、無事完走する。

・1983年
金栗四三がなくなる。92歳の大往生であった。

・2004年
箱根駅伝の最優秀選手に「金栗四三杯」が授けられるようになる。

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金栗四三に子供や子孫はいるの?


また、金栗四三の子孫は今もいるのでしょうか。
大河ドラマの主人公の末裔がどうなっているのか、気になる方も多いと思います。

金栗四三は妻の春野スヤとの間に、6人の子供を授かっています。また1967年のストックホルム五輪開催55周年記念式典に招かれた際、以下のコメントを述べられています。

「長い道のりでした。その間に嫁をめとり、子供6人と孫10人ができました」
※参照:金栗四三 – 玉名市


自身も8人兄弟の7番目として産まれた四三。6人の子供と10名の孫にも恵まれたのですから、四三のまわりには古きよき大家族の光景が見られたのかもしれませんね。

また、2012年7月には、金栗四三のひ孫にあたる蔵土義明さんが、ストックホルム開催100週年式典に招かれており、曽祖父の四三と同じコースを完走した事も話題になりました。熊本で会社員をされていた蔵土さんは当時25歳。もっとも出身は東京のようで、熊本にきたのは社会人になってからなのだとか。「熊本には曽祖父のことを知ってる人がたくさんいて驚いた」とコメントされていた事もありました。

ストックホルムを訪れた際、蔵土さんは1912年に途中棄権した四三を介抱したスウェーデン人・エルジエン・ペトレさんのご家族の元を訪問し、1世紀前のお礼を伝えています。その翌年には、ペトレさんのご家族が東京マラソンに出場するために日本を訪れており、同時に四三の墓の前で手を合わせたエピソードも。四三とこのご家族は、ストックホルム五輪後も手紙での交流を続けていたそうです。

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この記事のまとめ


金栗四三がどんな人だったのかを、年表やその子孫の方を含めご紹介しました。

日本初のオリンピック選手であり、また箱根駅伝の創始者でもある四三。世界規模の大会で大きな記録を残した訳ではないものの、彼が日本のスポーツ界に与えた影響は多大なるものがあります。大河ドラマ「いだてん」で、中村勘九郎さんが四三をどのように演じるのか、今から楽しみですね。

なお、以下の記事では四三が創始した箱根駅伝の歴史について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:箱根駅伝の歴史をわかりやすく解説。その起源とは?