大河ドラマ「いだてん」で、重要人物として登場する嘉納治五郎。講道館柔道の創始者として知られる人物ですが、その家族には、一体どのような人がいたのでしょうか。

このページでは、嘉納治五郎の父親や妻、子孫の有無などを紹介しながら、嘉納治五郎という人物を深掘りして調べてみました。

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嘉納治五郎の父親は、勝海舟との縁があった人物だった!


嘉納治五郎の父親は、嘉納治郎作(じろさく)という人物です。1813年に生まれ、1885年になくなったと言われています。

治郎作はもともと嘉納家の人間ではなく、日吉神社の神官の四男として近江国(今の滋賀県)で生まれました。成長して、治五郎の祖父にあたる嘉納治作の長女、定子と結婚し嘉納姓を名乗る事となります。

嘉納家はもともと、酒造業を営む財閥であり、現在でも残る「菊正宗酒造」「白鶴酒造」はその流れを組んだ企業として知られています。嘉納治作(治五郎の祖父)はもともと、娘婿の治郎作に嘉納家を継がせようとしていたのですが、治郎作は後を継ぐのではなく、廻船業(かいせん)を営む事を決意します。

廻船業者としての嘉納治郎作は非常に優秀だったようで、1863年に勝海舟が神戸で建設した和田岬砲台(わだみさきほうだい)等の造営を請け負った事で知られています。江戸幕府が滅亡した後は明治政府に仕え、海軍の書記官を務めたという記録が残されています。

余談ですが、勝海舟は治郎作を通して嘉納治五郎との交流があった事でも知られており、1894年に行われた講道館の落成式の際、来賓として招かれた人物の中に勝がいたという逸話もあります。また、講道館創立100年を記念して設立された資料館には、勝海舟が嘉納治五郎に送った書が展示されています。

※参考:勝海舟ってどんな人?年表や業績を小学生向けに解説!

治郎作は1885年になくなりました。妻の定子との間には3男2女の子供に恵まれています。また教育を重視しており、幼い頃の嘉納治五郎に儒学者を付けて漢学などを学ばせたり、洋楽に関心を抱いた治五郎が育英義塾に入学したいといった事を申し出た際も、これを受け入れています。こうした治郎作の姿勢、教育者としての嘉納治五郎の基盤になったのではないかと感じますね。

嘉納治五郎の妻はどのような女性だったのか。


嘉納治五郎の妻は須磨子(すまこ)という女性です。

須磨子の父親は竹添進一郎(たけぞえ しんいちろう)という熊本出身の人物で、外交官および東京帝国大学の教授を務めた漢学者として知られています。また、治五郎と須磨子の媒酌は、京都帝国大学(後の京都大学)の初代総長を務めた木下広次(きのした ひろじ)が務めたという記録が残っています。治五郎の周囲には、名高い教育者が多かったのだと感じます。

2人が結婚したのは1891年の8月。嘉納治五郎31歳の時でした。しかし新婚生活のつかの間。この年、嘉納治五郎は熊本にある第五高等学校の校長として赴任する事となります。治五郎はやむを得ず、須磨子を姉の嫁ぎ先に預け単身で熊本に赴き、およそ2年間、校長として職務を全うしました。また、嘉納治五郎が道場を運営するにあたって、須磨子の功績は非常に大きく、治五郎の門下生の多くが、彼女を母のように慕ったという記録が残されています。

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その後、治五郎と須磨子は3男5女の計8人の子宝に恵まれます。このうち長男の履信(りしん)は須磨子の実家である竹添家を継承し、洋画家・竹添履信として数多くの実績を残しました。嘉納家を継いだのは次男の嘉納履正(りせい)で、1946年から80年と長きにわたり、講道館の館長を務めた事で知られています。

嘉納治五郎の子孫は今もいるのか?


最後に、嘉納治五郎の子孫の方についても見ていきましょう。

前述の通り、嘉納治五郎と須磨子の間には合計8人の子供がいました。誕生した順に並び替えると、以下のようになります。

・範子(長女・明治26年生まれ)
→東京高師教授・綿貫哲雄の妻
・忠子(次女・明治28年生まれ)
・竹添履信(長男・明治30年生まれ)
・爽子(三女・明治31年生まれ)
→工学博士・生源寺順の妻
・希子(四女・明治32年生まれ)
→畠中恒治郎の妻
・嘉納履正(次男・明治33年生まれ)
・篤子(五女・明治40年生まれ)
→鷹崎正見の妻
・嘉納履方(三男・明治45年生まれ)

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このうち、治五郎の跡を継いで講道館の館長に就任したのは、次男の嘉納履正です。柔道を世界中に普及させ、また1964年の東京オリンピックで柔道を正式種目にするなど、柔道界にあたって多岐にわたる功績を残した履正ですが、ご自身が柔道を学んだ事はなかったのだとか。

履正の跡を継いだのが、長男にあたる嘉納行光(ゆきみつ)氏です。講道館の4代目館長を2009年まで務め、現在は名誉館長という肩書となっています。行光氏には2人の娘さんががいるとの事ですが、いずれも柔道界とは関係のない方だそうです。

その他の嘉納治五郎の子孫にあたる方の詳細も調べてみましたが、世に広く知られている方は、ネットで調べる限りではいないようです。ただ、8名の子供に恵まれ、また娘たちの多くも嫁いでいる記録が残されている事からも、嘉納治五郎の子孫の方は、今でもいらっしゃるのではないかと思います。

※参考:嘉納治五郎の実家や出身地について。灘高校との関係は?

まとめ


嘉納治五郎の家族というテーマで、治五郎の父親、妻、子孫の方についてご紹介しました。

嘉納治五郎の業績は少なからず知っていたつもりでしたが、勝海舟との関わりや菊正宗、白鶴との関係については全く知らなかっただけに、その縁の深さには驚きました。妻・須磨子との結婚においても、著名な教育者の名前が少なからず見られる事から、その人脈の広さにも驚いた次第です。

「柔道の父」として知られる嘉納治五郎ですが、大河ドラマ「いだてん」では教育者としての側面も描かれる事になりそうです。こうした教育者としての治五郎の背景には、ここで紹介した家族の存在も大きいのだと、この記事を書いていて改めて実感しています。

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