平安時代末期に行われた源平合戦。
その中で最も強かった武将と言えば…
何よりもまず、源義経の名前があがるのではないでしょうか。
このページでは、源義経がどんな人だったのかを、年表を交えながらご紹介します。
また、兄の源頼朝や、家来の弁慶との関係についてもまとめてみました!
目次
源義経ってどんな人?わかりやすく解説!
まずは源義経がどんな人だったのか、簡単にご紹介します。
源義経は1159年に、源氏のリーダーであった父の源義朝と母の常盤御前の間に生まれました。
生まれた頃は牛若丸(うしわかまる)と呼ばれていて、兄には後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝がいます。
源義経が生まれた時代は、源氏がライバルの平氏に押されていた時期でした。父の義朝は、義経が生まれた年に殺されていて、兄の頼朝も京都から遠く離れた伊豆(今の静岡県)に流されていた状況でした。
その後、源頼朝が平氏打倒の兵をあげると、義経は頼朝に協力して、平氏との戦いでたくさんの手柄を立てます。義経は戦がとても上手で、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすのですが、やがて将軍となった兄の頼朝と対立するようになります。
頼朝によって殺されそうになった義経は、かつて子供時代を過ごした陸奥国平泉(現在の岩手県)まで逃げ、幼いころに世話になった奥州藤原氏の当主・藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)を頼ります。
しかし、頼朝は義経をかくまった奥州藤原氏にも圧力をかけ、やがて秀衡もなくなります。義経は秀衡のあとを継いだ泰衡に攻められ、わずか31歳でその生涯を閉じました。
源義経の生涯を年表にしてまとめてみた。
ここからは、源義経の生涯を年表形式で振り返ってみましょう。
・1159年(0歳)
源氏のリーダー・源義朝の九男として京で生まれる。
幼いころは牛若丸と呼ばれる。
平治の乱によって父の義朝が殺される。
牛若丸は母とともに大和国(現在の奈良県)へ逃げるが、後に都に戻る。
・1169年(11歳)
母が公家と再婚し、牛若丸は僧になるために鞍馬寺へ預けられる。
遮那王(しゃなおう)と名乗る。
このころ、弁慶と出会ったといわれている。
・1174年(16歳)
鞍馬寺を出て、陸奥国平泉の藤原秀衡を頼る。
・1180年(22歳)
源頼朝が平氏を倒すために伊豆で兵をあげる。
義経は頼朝のもとで戦おうと、訪ねる。
・1184年(26歳)
頼朝の命令によって、一族の木曽義仲を倒す。
一ノ谷の戦いで平氏に勝利する。
※参照:一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いの違いをわかりやすく解説!
・1185年(27歳)
讃岐国(現在の香川県)で行われた屋島の戦いで、平氏を破る。
長門国(現在の山口県)で行われた壇ノ浦の戦いで、平氏を破る。
後白河法皇から勝手に位をもらい、頼朝の怒りを買う。
・1187年(29歳)
頼朝との対立が大きくなり、命を狙われるようになる。
藤原秀衡を頼って平泉へ逃げる。
・1189年(31歳)
秀衡の子・泰衡に裏切られて攻められ、自殺する。
年表を見てみると、義経は戦いの名人だった事がわかりますね。義経の活躍なくして、源頼朝は鎌倉幕府を開けなかったのかもしれません。しかし、平氏との戦いの中で少しずつ、兄弟の仲は悪くなっていきます。
源義経と源頼朝。この2人の関係について、もう少し詳しく見てみましょう。
源義経と源頼朝の関係は?仲が悪くなった理由について!
鎌倉幕府を開き、初代将軍となった源頼朝。義経はその弟です。二人とも父親は源義朝ですが、母親は異なります。頼朝は三男ですが、母親が身分の高い家の出身だったために長男として扱われます。一方、九男である義経の母は身分の低い家の出身でした。
義経が生まれてすぐに父の義朝は平治の乱で亡くなり、義経は母とともに大和国へ、頼朝は伊豆へとそれぞれ落ちのびます。年も離れていて、お互いに顔を会わせたことはほとんどなかったでしょう。平氏を倒すために頼朝が兵をあげたとき、義経は兄のもとに駆けつけますが、初対面に近い状態だったと思われます。
崖を馬に乗ったまま駆け降りて平氏の軍を襲うなど、勇敢で戦上手な義経は、平氏を倒す大きな力になりました。義経が瀬戸内海で戦いに明け暮れているとき、頼朝は鎌倉にいて、武士中心の世の中をつくる仕事をしていました。頼朝は義経の武士としての力は認めながらも、戦場では頼朝の使者の指示に従わず、自分だけの判断で作戦をすすめる義経に、危機感を抱いていたようです。
義経が壇ノ浦で平氏を破った後、後白河天皇から検非違使(けびいし)という京の治安を取り締まる役職をもらうのですが、頼朝の許可を得ずにもらったとして怒りを買います。
関東の武家政権を強い組織にするために、自分に従わない者がいることは、それが身内であっても他の家来に示しがつかないと頼朝は考えていました。そうした政治的な考えが義経には足りなかったともいえるでしょう。
その一方で、わずか31歳で悲劇的な最後を遂げた義経を惜しむ人はたくさんいたようで、当時から義経にまつわる様々な伝説が生まれる事になりました。
源義経と弁慶の関係は?安宅の関の逸話の真相について!
源義経にまつわる有名なエピソードとして、義経まだ「牛若丸」という名前で呼ばれてた時期に、後の家臣となる弁慶と出会った話が挙げられます。
これは笛を吹きながら京都の五条大橋を渡る牛若丸が、道行く人から刀を奪う弁慶と対決し、みごとに打ち負かす話です。その後、弁慶は牛若丸=源義経の家来となり、平氏との戦いで何度も義経を助けました。
この2人の関係は、主君と家臣の理想的な関係だったと言っても過言ではないでしょう。それを示す逸話として有名なのが今の石川県にある「安宅の関」のエピソードです。
義経や弁慶が山伏の姿に変装し、京から平泉を目指して逃げる途中、この安宅の関で役人に正体がばれそうになります。弁慶は機転を利かせ、義経を叱って杖で殴る芝居をします。役人は弁慶の嘘を見破りつつも、主君をなんとか無事に平泉へ連れたいという弁慶の気持ちに心打たれ、だまされたふりをするという話が残っています。
その後、弁慶は義経が平泉に逃げ、最期を迎えるまで行動を共にしました。義経は平泉で、藤原泰衡に裏切られて攻められますが、弁慶は義経がいる建物の前に立ち、何本もの矢を体に受けて仁王立ちのまま、命を落としたと伝えられています。
…というのが源義経と弁慶の関係なのですが、実はこれらの話は義経が生きた時代よりもあとに作られた伝説なんでよね。
鎌倉時代に書かれた『吾妻鏡』という歴史書には「京を出た義経とその家来たちの集団の中に、『弁慶』という者がいた」と載っているだけで、弁慶がどんな人だったのかはほとんどわかっていません。
ただし、平泉へ逃げる義経を助けた僧が何人かいた事は本当だったようで、これらの話が発展して義経と弁慶にまつわる逸話が出来上がったと言われています。
この記事のまとめ
源義経がどんな人だったのかを、年表形式で簡単に振り返ってみました。
31歳の若さで兄に攻められ自害した義経は、その後「悲劇のヒーロー」として人気を集め、読み物や能、歌舞伎の主人公として今に至るまで語り継がれています。義経と弁慶の関係は、こうしたエピソードの最たる物と言ってもいいのかもしれません。
その一方で、義経と兄の源頼朝の関係は複雑なものでした。当初は兄に協力して平氏との戦いで大活躍した義経ですが、その後は頼朝と対立し、北の地で最後を迎える事となります。
その源頼朝の生涯については以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:源頼朝のプロフィールや年表を小学生向けにわかりやすく解説
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