武田信玄の家臣団の中で、最強とも言える赤備えを率いていた猛将・山県昌景

「武田四名臣」の1人として数多くの戦いで活躍しただけではなく、信玄の側近として内政や外交など、幅広い分野でその活躍は見られます。

そんな山県昌景ですが、身長がかなり低かったという意外な一面でも知られています。

他にも、山県昌景の居城「江尻城」や、昌景の子孫の有無についても詳しくご紹介します。

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山県昌景の身長の低さにビックリ!?


山県昌景と言えば武勇に優れた猛将というイメージが強いと思います。「武田四名臣」の1人に数えられている事から、その武勇は当時から知られていたのでしょう。

猛将というと、身長も高く大柄なイメージが持たれやすいですが・・・
実は山県昌景は、大変小柄な身長だった事で知られています。

昌景の身長は、約130~140cmと言われていて、当時の男性の平均身長が150cm後半だったことを考えてみても大変低い身長だったことが分かります。


しかし、それでも山県昌景は敵将にも名を轟かせていた様子で、

小男で器量も良くないが立てば耳のそばに雷が落ちたようである。信玄の家臣でも特に忠誠心があり、戦場では信玄の小男が出たと恐れられるほどの侍大将である

という記述が残っている史料もあります。

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山県昌景の居城「江尻城」について


山県昌景が治めた城として有名なのが、駿河国にある「江尻城」という山城です。

武田の本拠地といえば甲斐なのですが、ではなぜ駿河にこの城を建てたのでしょうか。
これは武田信玄が駿河に侵攻する際、徳川氏との前線基地として、また水軍や水運を管轄する為に建設したものと考えられています。

また、山県昌景が江尻城の城主として選ばれた理由としては、駿河侵攻当初は徳川氏と武田氏は同盟を組んでおり、その取次を務めていたのが昌景だったからではないかと考えられています。

山県昌景は長篠の戦いで戦死するまで、この江尻城の城主を務めていました。昌景の死後は同じ武田家家臣の穴山梅雪に城主の座が引き継がれ、江尻城は武田氏の駿河経営の拠点としてその後も発展しました。

山県昌景の子孫はどうなった?


そんな山県昌景ですが、子孫はいるのでしょうか?

まず、山県昌景の子供ですが、なんと息子が7人もいたと言われています。


嫡男:山県昌次、長篠の戦いで討死
次男:山形昌満、信長の甲州征伐で討死、あるいは上杉景勝に仕えたとも
三男:山県昌久、尾張に移り福井笹治山県家の祖となる
四男:山県定昌、実子ではなく養子、上杉景勝に仕えた説がある
五男:山県昌重、大坂の陣で塙団右衛門の家老として討死
六男:山県太郎右衛門、養子、子孫に江戸中期の思想家である山県大弐
七男:山県信継、徳川家康に仕える、子孫は「山県館」という旅館を経営



少なくとも三男の昌久と七男の信継の血を引く子孫の方がいるという事になりますね。

また、山県昌景には娘が3人いて、それぞれ三枝守友、相木昌朝、横田尹松に嫁いでいます。


一方、「山県」という名字が有名な歴史上の人物として、第三代内閣総理大臣として広く知られている山縣有朋がいます。漢字は微妙に違いますが、何かしらの関係はあるのでしょうか。

これについては、2人の祖先を考えると分かりやすいと思います。

まず山県昌景の祖先は甲斐山県氏、山縣有朋の祖先は安芸山県氏出身と、別々の家に繋がっています。その一方で、山県昌景の先祖が安芸山県氏であるという説もあるため、この説が事実だとすれば、山縣有朋と山県昌景は何かしらの形で血が繋がっているとも考えられます。

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この記事のまとめ


身長が低くとも恐れられていたという話や、徳川氏との前線であった江尻城主であったことなど、一見以外に見える話にも、山県昌景の強さが垣間見られるものです。

また、子供や子孫が様々な地域で活躍している事も踏まえると、山県昌景の武勇はその死後も広く知られていたのではないかと思いました。

そんな山県昌景の強さについては以下の記事で詳しくまとめているので、興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:山県昌景の強さや武田勝頼との関係とは。その最後にも迫る!