馬場信春は武田四天王の一人で、武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡って武田氏に仕えました。
彼は武勇に秀でた武将で、長篠の戦いでは壮絶な最後を遂げています。

一方で馬場信春は築上の名手であったとも言われているのですが、実際に手がけた城はどこにあるのでしょうか。また、武田氏の興亡に合わせるようにして歴史の舞台から去った馬場信春に子孫はいたのか探ってみましょう。

スポンサードリンク

馬場信春にゆかりのある城はどこなのか?


馬場信春は山本勘助学んだとされる築城の技術を生かし、多くの城を建築したと言われています。「深志城」「牧之島城」「諏訪原城」「小山城」の4城が、彼によって築城されたと伝えられています。

この中で「深志城」と「牧之島城」は現在の長野県に、「諏訪原城」「小山城」は現在の静岡県に築城されました。中でも「深志城」は、国宝に指定されている松本城の前進にあたる城なんですよね。国宝になる城を建築するとは、馬場の築城の腕は名手の名にふさわしい技量だと言えるでしょう。

その他の他にも「江尻城」「三河・古宮城」も馬場が作成したのではないか伝えられています。武田氏の勢力範囲に呼応して、馬場ゆかりの城は信越・東海地方に多いということですね。

※参照:山県昌景の身長や居城の江尻城について。子孫はいるの?

馬場信春の長篠の戦いにおける最後について解説!


馬場信春の最後は長篠の戦いによるものでした。
その最後は、一体どのようなものだったのでしょうか。

長篠の戦いが不利な戦であることを悟った馬場は、主君である武田勝頼に撤退するように進言します。勝頼がこの進言を退けると「武田家の運命もここまで」と思い至り、盟友である山県昌景や内藤昌豊らと今生の別れの盃を交わしたと言われています。つまり馬場は、長篠の戦に勝ち目がないと悟りつつも、あくまでも武田氏と運命を共にする道を選択したということですね。

織田軍に大敗した勝頼が退却する際、馬場は殿を引き受けました。勝頼が無事に退却したのを確認すると、逃げるどころかむしろ反転をして、織田軍に突撃し討死します。その戦いぶりはあまりにもすさまじく、『信長公記』には「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と記されています。ちなみに馬場は生涯で70回以上の戦いに参加したと言われているのですが、長篠の戦いに至るまでかすり傷ひとつも負わなかったと言われており、後世の人々は彼の事を「不死身の鬼美濃」と呼んで讃えました。

死ぬ覚悟をして戦に臨み、死に様をもってして織田信長に称賛させるなんて、馬場の鬼神ぶりが伝わってくる最後ですね。

スポンサードリンク

馬場信春の子孫は今でもいるのか?


馬場信春の子孫は、今でもいるのでしょうか。

馬場家は馬場信春の戦死を受け、嫡男である昌房が継いでいます。昌房は武田氏が滅亡した1582年に深志城を織田方に明け渡した後に戦死したと伝えられています。その後、馬場家は信春の弟の馬場信頼が継いでいます。信頼の血脈は江戸時代以降も引き継がれており、幕臣となるものや土地の有力者となる者など、多岐に渡る道筋を辿りました。

また、信春には2人の娘がいたとされており、それぞれ家康の家臣である鳥居元忠、真田昌幸の弟である真田信尹に嫁いだとされています。これ以外には、戦国時代の研究者として知られる小和田哲男氏は、母方の祖先が馬場信春にあたると聞かされて育ったとされています。

信春直系の子孫は戦国時代の最中に途絶えてしましたが、その血脈自体は今なお引き継がれているようですね。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


今回ご紹介した馬場信春は築城の名手としても名高く、また武勇に優れた武将でした。馬場ゆかりの城と馬場の最後、子孫のその後は以下の通りです。


・馬場信春が築城した城は「深志城」「牧之島城」「諏訪原城」「小山城」で、場所は信越から東海地方にかけて分布している
・馬場信春の最後は討死。死に様は織田信長にも評価された
・馬場の子孫は、直系は戦国時代途中に途絶えたが、血脈は江戸時代以降にも引き継がれている


築城と武勇の両方に通じていた馬場信春は、当時の戦国武将にとっても恐ろしい存在であったのではないでしょうか。そんな馬場の魅力に思わず胸がときめいてしまいますね(笑)


また、馬場信春といえば「武田四天王」の1人としても有名な武将です。その他の3人については以下の記事で解説しているので、一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:武田四天王(武田四名臣)は実は8人いた?甲陽の五名臣も?