賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる加藤嘉明ですが、一体どのような経緯で豊臣秀吉に仕えたのでしょうか。
その前半生について迫ると共に、同じ加藤姓である加藤清正との関係について調べてみました。

また、領国が隣り合っているライバル関係にあった藤堂高虎との関係も興味深いところです。

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加藤嘉明が豊臣秀吉に仕えた経緯とは?


加藤嘉明の父・加藤教明は、三河・幡豆郡で松平(徳川)家康に仕えていましたが、永禄6年に三河一向一揆に与したことから、一家は流浪の身となりました。

一時は足利義昭に仕え永禄12年の京都本圀寺の変では三好三人衆と戦ったという記録が残されています。義昭追放後、再び路頭に迷った父・教明は、天正元年から近江・長浜城城主となっていた豊臣秀吉(羽柴秀吉)に300石で仕えます。

嘉明は少年の身ながら、陰に陽に父をたすけていたのでしょう。同じ加藤姓の加藤景泰がその嘉明の姿を見出し、秀吉に推挙します。秀吉もまた嘉明を前にして感じるところがあったのでしょう。嘉明をまず景泰の猶子とさせた上で、自らの養子である羽柴秀勝の小姓として取り立てることとしました。

天正4年、信長から中国攻めを任された秀吉がまず播州攻略に着手すると、初陣を焦った嘉明は主君・秀勝に無断で出陣し、発覚してしまいます。秀勝の初陣も果たせぬ時期のこうした事態に、秀吉の正室おねは激怒し、危うく放逐されるところでしたが、秀吉に救われます。

こうして、加藤嘉明は300石の扶持を受け秀吉の直臣として取り立てられました。秀吉は自身の経験則から嘉明の素質を見抜いたに違いなく、嘉明もまたこうした秀吉の計らいを意気に感じ、命も惜しくないと思ったに違いありません。

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加藤嘉明と加藤清正の関係。同じ加藤だけど出自は?


こうして秀吉に仕えた加藤嘉明ですが、同じ加藤姓である加藤清正とは何かしらの関係があったのでしょうか。

加藤嘉明と加藤清正は、同じく秀吉子飼いの武将であり、秀吉に仕えるようになった時期も天正初期(秀吉の近江・長浜時代)と一致しています。
また、賤ヶ岳の戦いでは共に七本槍に選ばれており、朝鮮出兵における蔚山城防衛戦では籠城する清正を嘉明が救出に向かうなど、共に豊臣家の武断派武将の代表格として活躍を見せます。

この2人は同姓で、しかも家紋が同じ蛇の目紋を使用しているために、加藤嘉明と加藤清正は血縁ではないかとの誤解を招きがちです。

※参照:加藤清正の家紋について解説。明智光秀との意外な関係とは?


加藤嘉明は先述したとおり三河の出身であり、一方の加藤清正は尾張・愛知郡中村で刀鍛冶をしていた加藤清忠の次男であるため直接の親戚ではありません。

無論同じ加藤姓なので、先祖を遡るといずれも藤原氏に行きつくということにはなります。
また蛇の目紋については、嘉明や清正以外にも加藤姓で使用する家があることから、加藤姓の家に共通して伝わる紋なのかもしれません。ちなみに、家紋は唯一のものではなく、例えば嘉明の加藤家では蛇の目の他に下り藤の紋も使用しており、清正の加藤家では同様に桔梗の紋や折墨の紋を使用していました。

加藤嘉明と藤堂高虎は不仲だったけど晩年は?


また、加藤嘉明と言えば藤堂高虎とのライバル関係が比較的知られています。
この2人は出世競争のライバルであり、また犬猿の仲としても有名でした。

この2人は共に伊予を領国としてた共通点があるのですが、当時の二人は松山(加藤嘉明)と今治(藤堂高虎)とで領地が隣接していたこともあり、時に小競り合いを繰り返したことも。
両者とも近江・長浜時代の秀吉に300石で仕えるという地点から出発しており、初めから競争意識に拍車がかかる要因となった可能性はあります。

また、2人の仲が悪化したのは、1597年の慶長の役における漆川梁海戦だと言われています。この戦いで嘉明、高虎は共に活躍するのですが、この戦いでは高虎の方が功績が多かったようで、これが原因で関係が悪化したという見方もあります。


試みに、嘉明と高虎の加増の記録を並べてみると、加増時期やその石高は驚くほど近似します。以下、かけ足で二人のレースを振り返ります。

・天正10年賤ヶ岳の戦いの後:嘉明3600石、高虎は4600石に加増
・天正14年四国征伐後:嘉明1万5000石、高虎1万400石
・文禄4年の朝鮮出兵後:嘉明6万石、高虎は出家・還俗を経て7万石に加増
・慶長3年の朝鮮出兵後:嘉明は10万石、高虎は8万石
・慶長5年の関ケ原合戦後:共に20万石



以後は、高虎の家康への激しい傾斜のため、均衡は崩れ、慶長19年に大坂冬の陣後の加増で高虎32万石とその差はさらに開きました。

寛永4年、会津藩主の蒲生氏郷が早世し、蒲生家が断絶します。
将軍・秀忠は高虎に会津藩42万石への移封を進めますが、高虎は丁重にこれを辞退すると、代わりに加藤嘉明を推挙しました。

怪訝な顔の秀忠を前に、高虎はおそらく落ち着いた声で語ったのでしょう。
日頃の不仲は私事であり、いま奥羽の要たる会津の処遇は国事でありましょう。豪胆にして律義者な嘉明がもっともその任にふさわしいはずです。

これを聞いた嘉明は、藤堂高虎と和解し以後は無二の親友となりました。寛永7年に高虎が75歳の生涯を閉じると、翌寛永8年、慕うように嘉明も世を去ります。嘉明69年の生涯でした。

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この記事のまとめ


加藤嘉明はもともと三河国の出身で、もともとは秀吉の養子である羽柴秀勝の小姓として仕えていました。また、加藤清正とは同じ加藤姓であっても出身地が異なるので、直接の縁戚関係はありません。

一方で、加藤嘉明といえば藤堂高虎とのライバル関係が有名です。この2人の加増時期や石高はかなり似ているのですが、関ヶ原の戦いの後は高虎に大きく差を付けられる事に。ただ晩年には和解したそうですね。


ちなみに、加藤嘉明以外の賤ヶ岳の七本槍については以下の記事で解説しているので、一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?