ゲームなどで人気上昇中の片倉景綱は伊達政宗に仕えた武将で、片倉小十郎の名で知られています。神職の次男に生まれながら政宗の近習となり、戦時は軍略・平時は内政に通じ、白石城の城主にまで出世しました。
この片倉景綱ですが、具体的にどのような活躍をして伊達氏重臣の地位を築いていったのでしょうか。景綱の活躍を追うとともに、その子孫についてもご紹介します。
片倉景綱の伊達家における活躍について
片倉景綱が伊達政宗に仕えたきっかけは、姉の喜多が政宗の乳母となった事でした。そして景綱は伊達氏の城下町・米沢で火災があったとき、火消し役として大活躍したことがきっかけで政宗の父・輝宗に見出され、その小姓として仕える事になります。
その後、景綱は遠藤基信の推薦によって政宗の近習に抜擢されます。景綱は政宗の近習として、隻眼に悩む政宗が前向きな性格になるように支えました。
景綱の活躍は、政宗が家督を継いだ後から顕著になります。人取橋の戦いで政宗が窮地に陥った際は、自らが政宗のふりをすることによって救い出しました。
その後も郡山合戦、摺上原の戦い、小田原征伐、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いといった主要な戦に出陣し、政宗の軍師的存在として活躍していきます。
特に小田原征伐の時には、秀吉方に参戦するよう政宗を説き伏せ、伊達家の地位や立場を守ることに奔走し、これを成功させました。また、景綱は平時には伊達氏の対外交渉の取次役という、今で言うところの外交官的役割も担っていたようです。
片倉景綱は政宗を支え、窮地を救うというヒーロー的活躍をするとともに、外交官としても手腕を発揮した人物であったと言えるでしょう。
※参照:伊達政宗の小田原合戦への参陣。伊達家と北条家の関係は?
片倉景綱が居城とした白石城について
政宗を支え続けた景綱はその功績が認められ、1602年に現在の宮城県白石市にある白石城の城主となりました。以来、白石城は片倉氏の居城として明治維新まで栄えます。
この白石城の歴史は古く、後三年の役で活躍した刈田氏が築城・居住したのがきっかけと言われています。刈田氏は白石氏を名乗り後に伊達氏の家臣となったため、白石城は伊達氏支配下の城でありました。
戦国時代になると、秀吉によって会津に転封された蒲生氏郷の家臣、蒲生郷成によって本格的に築城され、その後は上杉氏の家臣である甘粕景継が居住します。その後の白石城は、1600年の白石城の戦いで上杉氏に勝利した伊達氏が再び支配下に納め、その2年後に景綱は白石城の城主になりました。
つまり景綱は、伊達氏ゆかりの城を任されたということですね。
さすが、政宗に信頼される男と言ったところでしょう。
江戸時代には「一国一城制」という、大名が居城する城もしくは政庁となる城以外は廃城するという制度が定められましたが、白石城はその対象外となりました。そのため、白石城は支城でありながらも明治時代まで存続したのです。
片倉景綱の子孫はどうなった?
片倉景綱の子孫はどうなったのでしょうか。
景綱には3人の息子と2人の娘がいます。片倉家は景綱の死後、正妻との間に生まれた嫡男・片倉重長が家督を継いでいます。その一方で、景綱の次男である友綱、三男である行綱については不明な点が多いですね。景綱が長男以外は重んじなかった為でしょうか。
この片倉重長には男子が生まれなかったため、娘の嫁ぎ先で生まれた外孫を養子にとっています。直系男児でなくても、景綱の血脈は受け継がれたということですね。その後の片倉家の当主は景綱の通称「片倉小十郎」を代々名乗り、内外から特別扱いを受けていました。
幕末になると、片倉家は主君である伊達家と共に新政府軍に抵抗したため、白石城を没収されてしまいます。その後、片倉家の家臣の一部は北海道へ開拓に出向きました。
彼らが居住した地は現在の札幌市白石区に当たります。
1898年になると、片倉家は華族に任命されています。現在の片倉家は16代目にあたり、仙台市にある青葉神社の宮司を務められています。
この記事のまとめ
今回ご紹介した片倉景綱の活躍と居城、子孫については以下のようにまとめることができます。
・片倉景綱は戦時は軍師的役割を、平時は外交官的役割を担い、伊達氏の窮地を救う活躍をした
・片倉景綱の居城である白石城は戦国時代に他氏が居城するものの、伊達氏が奪い返し景綱に与えられ、以後明治維新まで存続した
・片倉景綱には5人の子どもがいたが、家督は嫡男・重長が相続。男系は途絶えるものの、景綱の血脈は受け継がれた
戦国武将の中には主君に忠義を捧げる男が多いですが、景綱も政宗を支えることに生涯を投じています。その忠義心ゆえに景綱の人気が上昇するのも納得です。居城や子孫が繁栄したのも、片倉景綱の特徴の一つと言えそうですね。
なお、以下の記事では景綱の主君である伊達政宗の評価について検証しています。政宗と言えば、最近では「過大評価されている武将」呼ばれる事も増えてきましたが、実際はどうだったのでしょうか。
※参照:伊達政宗の凄さって何だったの?過大評価の真相に迫る!