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「1600年といえば関ヶ原の戦い」と暗記した人も多いはず・・・

この関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に対して、
西軍に所属した武将はどのような顔ぶれだったのでしょうか。

また、西軍の敗因は何だったのかや、
もしも西軍が勝っていたらどうなっていたのでしょう?

関ヶ原の戦いの西軍」というテーマについて、
このページでは詳しくご紹介します!
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関ヶ原の戦いで西軍に所属した武将について解説!


関ヶ原の戦いで西軍に所属した武将には、
一体どのような人々がいたのでしょうか。

西軍といえば石田三成がまず浮かびますが、
総大将は五大老のひとり、毛利輝元、
副将は同じく五大老の宇喜多秀家が続きます。

他にも、同じ五奉行の増田長盛や長束正家、
前田玄以も西軍に所属していました。
(前田玄以は中立説もあります。)

この他、豊臣恩顧の武将たちで西軍に所属したのは、
大谷吉継、小西行長、脇坂安治、織田秀信の他に、
勝敗の決め手にもなった小早川秀秋が挙げられます。

※参照:脇坂安治と李舜臣の関係は?関ヶ原での裏切りや子孫について

総大将・毛利輝元の養子になっていた時期もある毛利秀元や、
毛利家の外交僧として秀吉と親しかった安国寺恵瓊、
実は東軍に内通していた吉川広家など毛利一族の名前も。

また九州の大名である島津義弘や立花宗茂、
四国の長宗我部盛親や常陸(茨城県)の佐竹義宣、
五大老の一人で会津(福島県)の上杉景勝、
信濃(長野県)の真田昌幸といった面々が西軍に所属していました。

ただし西軍に所属したとはいっても、
このうち全員が関ヶ原に布陣したわけではなくて、
そもそも総大将の毛利輝元は布陣しておらず、
上杉景勝や佐竹義宣、真田昌幸らも同じくといった感じで
五奉行の増田長盛も布陣していません。

首謀者の石田三成や副将の宇喜多秀家では、
人望、石高ともに東軍の徳川家康にははるかに及ばす、
戦いが始まる前から西軍に所属した大名たちの
まとまりの無さ、結束の弱さはあきらかだったかもしれません。

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関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因は何だったのか?


そんな、いまひとつ結束力に欠ける西軍は、
関ヶ原の戦いの敗者となるわけですが
その敗因は何だったのでしょうか。

ここでは大きく4つに分けて考えてみましょう。

敗因その1. 開戦以前からの徳川方による調略


東軍総大将・徳川家康は関ヶ原の戦いが起こる前から、
五大老の一人、前田利家の嫡男である利長を従属させたり、
加藤清正や福島正則に自分の養女を嫁がせるなど、
多方面に調略の網を張り巡らしていました。

他にも、細川忠興や堀尾吉晴に加増を行ったりと、
着実に、自分の味方を増やしていきます。

秀吉の遺言によって、当時、大名同士の結婚や
加増は禁止されていましたが、武将たちも
自分の利益が大切だったのかもしれませんね。

※参照:徳川家康のあだ名「狸親父」について。たぬきの意味って何?

敗因その2. 西軍の結束力の低さと首脳陣の力量不足


一方、肝心の西軍内部の結束はガタガタでした。

関ヶ原本線に参戦した島津義弘の隊は、
三成の指示に従わず、独断で動いた状態でしたし、
南宮山に布陣した毛利秀元や長宗我部盛親、安国寺恵瓊は、
東軍に内通していた吉川広家によって、
戦いに参加することは全くない状態。

大坂城にいた毛利輝元も、五奉行の一人である
増田長盛が裏切りという噂が流れていたため、
城を動けなかった状態だったと言われています。

その一方で、関東で200万石以上の領土を持ち、
織田信長や武田信玄、そして秀吉と渡り合った家康は、
当時の武将にとって頼もしい存在だった事でしょう。

いくら西軍の首脳である三成や宇喜多秀家が頑張っても、
家康と比べ、どちらが頼りがいがあるかは
一目瞭然だったのではないでしょうか。

西軍に加わった少なくない数の武将は、
その敏感なアンテナで「これから従うべきは豊臣か?徳川か?」
という事を考えながら戦っていたのではないでしょうか。

迷いながらの戦いでは勝てるはずは無いですよね。

※参照:宇喜多秀家の関ヶ原での奮戦や八丈島での暮らしとは。子孫はいるの?

敗因その3. 豊臣秀頼が西軍に加わらなかったため


とはいえ、もし三成らが豊臣秀頼を戦いの大義名分として担いで、
豊臣政権を軽んじる逆臣・徳川という構図を鮮明に打ち出したとしたら、
東軍に味方した豊臣恩顧の武闘派大名たちは、
東軍には流れなかったかもしれません。

知性派・石田三成と武闘派大名たちのソリが合わなかったにしても
豊臣家への忠節の一点では結びついているので、
豊臣秀頼という旗印のもとへ結集し、西軍の結束は強まったハズです。

この点を三成を意識していたようで、
実際に秀頼を西軍に加えようとしたのですが、残念ながら、
秀頼の母、淀殿に反対され実現できませんでした。

※参照:淀殿の性格や悪女と呼ばれた理由とは?淀君の意味も解説!

敗因その4. 小早川秀秋らの戦場での裏切り


そして何より、西軍敗北の原因と言えば、
なんといっても小早川秀秋隊1万5千の裏切りが大きいですよね。

もっとも、秀秋が裏切るであろう事は、
大谷吉継などはあらかじめ予想していたみたいですが、
秀秋に続いて脇坂安治などの武将たちも寝返り、
一気に東軍優勢へとなっていきます。

この状態も、東軍方の時間をかけた
巧妙な調略の成果と言えますよね。

※参照:小早川秀秋の居城について。亀山城、名島城、岡山城とは?

関ヶ原の戦いでもしも西軍が勝っていたら?


日本史のもしも○○だったら?の中でもいろんな答えがでてくる、
「関ヶ原のもしも?」ですが、もしも西軍が勝って、
そのうえ徳川家康が関ヶ原で戦死してしまったら、
時代はまた戦国乱世に逆戻りしたかもしれませんね。

関ヶ原に勝ったとしても、秀吉亡きあとの豊臣政権では
以前のような求心力は維持できないし、
西軍の諸大名も豊臣家のために一途に仕える、というよりは
徳川家康も他界して崩れたパワーバランスの中で
それぞれの思惑によって勢力拡大に動き出すのではないでしょうか。

地理的に本州と地続きではない
九州や四国などは豊臣政権の影響下からはずれて、
戦乱の末に島津家や長宗我部家がそれぞれ、
九州平定、四国平定をして独自に外国とも交易を行い、
琉球王国のように?なんて飛躍したことまで考えてしまいます。

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でも、もし西軍が勝っても、
総大将である徳川家康が生きていれば話はべつで、
時期は多少遅れるにしても豊臣家を滅ぼし、
江戸幕府を築くという筋書きは変らないのではないかと思います。

やはりカリスマ大名・徳川家康と
優秀で忠実な徳川家臣団という強力なチーム力に勝る
勢力はほかには見当たらないのではないでしょうか。

当時の戦国武将の中では、
徳川家康は他の武将たちに比べ、
核が違っていたのではないかと感じます。

この記事のまとめ


関ヶ原の戦いの西軍」というテーマで、
武将やその敗因などについてご紹介しました。


西軍の敗因としては徳川方による調略や、
石田三成が豊臣秀頼を担げなかった点、
小早川秀秋の裏切り等があげられます。

もしも西軍が勝っていたとしても、
家康が生きていれば、結局は江戸幕府が
築かれたのではないかと考えます。

仮に徳川家康が戦死した場合は、
戦国乱世へと逆戻りしたのではないでしょうか。


関ヶ原前夜の各武将達の動きや、
関ヶ原での戦いの混乱ぶりについては、
ドラマや小説などでもよく取り上げられますが、
当事者の大名たちにとっては生き残りをかけた大勝負で、
どちらに所属するか、さぞかし悩み抜いたことでしょうね。

※参照:関ヶ原の戦いの場所はどこ?現在の不破郡関ケ原町について!