三河国の土豪の出自である徳川家康ですが、彼が天下人になれた背景には家臣たちの絶え間ない努力と活躍が隠されています。その中でも目覚ましい活躍をみせたのが「徳川四天王」と呼ばれる4名の男たちです。

家康を支え続けた徳川四天王はどのような男たちだったのでしょうか。その概略を追うとともに、4名のその後と子孫が繁栄したのか否かについてもスポットを当ててみましょう。

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徳川四天王とは?どのような武将だったのか


徳川四天王とは徳川家康の側近中の側近で、乱世の荒波の渦中にあり続けた家康を支え、江戸幕府開幕に多大な貢献をした男たちのことです。


・酒井忠次 (1527〜1596)
・本多忠勝 (1548〜1610)
・榊原康政 (1548〜1606)
・井伊直政 (1561〜1602)

こちらの4名が該当します。

この中で酒井、本多、榊原の3名は古くから家康に仕えています。
彼らは家康をある程度の地位に押し上げていった人物と言えそうですね。


酒井忠次は家康が今川家の人質として駿府へ赴くときからつき従い、身の回りの世話を行っています。それ故に家康の信頼も特別だったようですね。三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦いといった家康の主要な戦に出陣し、武功をあげることでも家康を支えました。

※参照:酒井忠次と家康の関係やその晩年について。子孫はいるのか?


本多忠勝は幼い頃から家康に仕え、戦での活躍に秀でた人物でした。家康の主要な戦には必ずと言っていいほど出陣し、朝倉や武田に仕える猛将と恐れることなく戦い、自身が武功をあげることはさることながら、その武勇で家康軍を鼓舞することにも成功しています。あまりの強さから「家康に過ぎたるもの」とまで言われました。伊賀越えの際には血気にはやる家康を諌めるなど、家康を公私に渡って支えた武将であるようですね。

※参照:本多忠勝の父親はどんな武将?2人の妻やその子孫について!


榊原康政は三河一向一揆で初陣を果たし、武功を挙げた功績から「康」の字を与えられました。信康や秀忠といった家康の嫡男に仕えている点が特徴と言え、家康から次代の育成を担うにふさわしいと判断されるほどの人物だったようです。

※参照:榊原康政と本多忠勝の関係や兄の榊原清政、子孫について解説


一方の井伊直政は他の3名に比べて年齢が若く、1582年から家康に仕え始めています。その若さを武器に武功を挙げ、長年家康に仕えた酒井・本多・榊原と同等の地位にまで上り詰めています。関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として戦いの火ぶたを切って落としたようですね。

※参照:井伊直政の軍事、内政、外交面の能力について解説!


本多、榊原、井伊は豊臣秀吉からたびたび引き抜き勧誘にあっていますが、決して家康を裏切ることはありませんでした。心から家康に忠誠を誓っていたということでしょうか。徳川四天王とは戦での活躍がめざましく、家康を公私に渡って支え、天下人に押し上げていった男たちと言えるでしょう。

徳川四天王のその後について。晩年はどうなった?


猛将エピソードに事欠かない徳川四天王ですが、その後はどうなったのでしょうか。


酒井忠次は家中で最高位の従四位下・左衛門督にまで上りつめますが、眼病を患ったことをきっかけに1588年に隠居しています。一説では家康の長男、信康の切腹を止められなかった事を家康に咎められ、息子の家次の所領が功績の割にはかなり少なかったとも言われています。

本多忠勝は長年の働きが認められ、1601年に伊勢国桑名藩を与えられ初代桑名藩主となっています。その後は一族の本多正信ら文治派が優遇された事で、忠勝ら武闘派は思うような活躍が出来なかったとも言われています。晩年は病気がちになり、1609年に息子に家督を譲った後、1610年に死去しました。

榊原康政は関ヶ原の後、初代館林藩主となり、老中の地位にまで上り詰めています。晩年は家康よりも秀忠との関係が深く、病が悪化した際には秀忠から意志が派遣されています。ただしその甲斐なく、1606年に死去しています。

井伊直政は関ヶ原の戦いにおける功績から、石田三成の領地であった近江佐和山18万石を与えられています。しかしながら、関ヶ原の戦いで負った傷が悪化し、1602年に彦根城の完成を見ることなく死去しています。


徳川四天王のその後は本多、榊原、井伊の3人が厚遇されているのに加え、その筆頭である酒井忠次が冷遇されている感があります。これは家康が関東移封後、新しく台頭してきたこれら3名の武将を重んじる方針を取ったため、三河以来の臣下である酒井家を軽く扱ったという説があります。

ただ個人的には、家康を天下人に押し上げた徳川四天王が、家康の天下統一を見届けるようにして亡くなっていくところに、徳川家の主従の絆の強さを感じるところがあります。

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徳川四天王の子孫はその後どうなったのか?


徳川四天王の子孫はどうなったのでしょうか。


酒井忠次の子孫ですが、忠次の長男・家次は下総臼井3万石の藩主から上野高崎藩主、最終的には越後高田10万石藩主となり、譜代大名の中でも有力な地位になっています。孫の忠勝の代からは庄内藩17万石に入り、明治まで続いています。一時期は冷遇された酒井家でしたが、江戸幕府内では大老を輩出する4家の1つに数えられるようになっています。

本多忠勝の子孫は孫・忠刻が秀忠の長女・千姫を妻に迎えるなど、徳川家と一層の結びつきを強めていきます。1709年に直系は途絶えますが、分家から養子を立てて家を存続させています。ただし石高が減らされたため、財政難に陥るなどの苦労を味わったようですね。

榊原康政の子孫は康政死後に三男・康勝が家督を継ぎますが、大坂夏の陣で戦死し、跡継ぎもいなかったため一時断絶の危機にさらされます。しかし、榊原家の功績から康政の長男・大須賀忠政の長男で、康政の直系の孫にあたる忠次が家督を相続することが許され、以後明治維新まで存続しています。

井伊直政の子孫は代々彦根藩の当主として大いに栄えます。井伊家は酒井家などと同様、大老を輩出する4家の1つに数えられており、幕末には大老・井伊直弼を排出。明治時代には伯爵家として華族に列せられています。


いずれにせよ、徳川四天王の子孫は全て栄えたことが特徴であると言えそうですね。

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この記事のまとめ


家康の天下統一を支えた徳川四天王とは「酒井忠次」「本多忠勝」「榊原康政」「井伊直政」の4名をの総称で、この全員が家康の天下統一を支えた人物であるという共通点があります。

また、徳川四天王のその後は酒井家が一時期冷遇されたが、その子孫は江戸幕府でも要職を占め、家督相続の面などにおいて優遇されていました。

戦国の乱世をしたたかなまでに生き抜き、江戸幕府を開くにまで至った徳川家康の影には、徳川四天王の武勇があったということですね。徳川四天王のその後や子孫が優遇されたことを考えると、家康も相応の恩義を感じていたのではないでしょうか。


ちなみに、以下の記事では似たような総称である武田四天王について解説しています。興味があればご覧になってみて下さいね。

※参照:武田四天王(武田四名臣)は実は8人いた?甲陽の五名臣も?