本多忠勝と言えば、家康の家臣の中で最も武勇に優れた武将として数えられる人物です。


徳川四天王のひとりにして猛将の誉れ高く、人情味あふれる忠勝はどのようにして誕生したのでしょうか。

今回は本多忠勝の父親である本多忠高をはじめ、忠勝の妻や子孫について調べてみました。

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本多忠勝の父、本多忠高はどんな人?


本多忠勝の父親である本多忠高(ほんだただたか)は、1526年(あるいは29年)生まれの三河国の武将です。

家康の祖父である松平清康、そして父親である広忠の2代に仕え、1548年の小豆坂の戦いで織田信長の父、信秀と戦い勝利をおさめたという記録が残っています。
またこの年は、忠勝が生まれた年でもあります。

その翌年の1549年、忠高は今川家の先兵として、織田信秀(信長の父)に奪われていた安祥城奪回戦に参戦します。織田軍の守備に阻まれ戦線が膠着している時、大手門に向かって単騎駆け出し、味方に攻撃の糸口を与えますが、織田軍の無数の矢にさらされ、「鍋之助(=のちの忠勝)、立派な武士になるのだぞ」と言い残して絶命します。まだ22歳の若さでした。

父親の死後、忠勝は叔父で忠高の弟である本多忠真(ほんだただざね)に引き取られます。忠真は忠勝に武芸や学問などを教えただけでなく、桶狭間の戦いや三河国一向一揆などで活躍している武将です。しかし、家康が武田信玄に敗れた三方ヶ原の戦いで殿(しんがり)をつとめ、武田軍に切り込んで戦死したと伝わっています。

※参照:三方ヶ原の戦いを簡単に解説。徳川家康の敗因とは?

ちなみに、忠高と忠真の父・本多忠豊(ただとよ=忠勝の祖父)も、1545年の織田信秀との安祥畷の戦いにおいて、主君・松平広忠(家康の父)を助けるため、身代わりとなって敵陣へのりこみ奮戦するも、広忠の兜をかぶったまま無数の矢を身体に受け絶命したと伝えられています。

本多忠勝の猛将たる所以は、父方の血から受け継いだものだったのですね。

※参照:徳川四天王とは?その後や子孫の存在についても解説!


本多忠勝には妻が2人いた!?


本多忠勝には2人の妻がいました。正室の於久(おひさ)と側室の乙女(おとめ)です。

於久は阿知和右衛門玄銕の娘で、1569年10月家康の媒酌により婚姻します。
長男・忠政、二男・忠朝、娘一人をもうけました。

一方、側室の乙女は、正室の於久より先に嫁いでいます。
松平家家臣・松下弥一の娘で、幼くして父を無くし、忠勝が幼年時代に孫子の兵法を習いに通ったとされる妙源寺に預けられていたと伝えられています。
忠勝との間には、長女・小松姫の他に三人の娘をもうけました。

1601年、忠勝が桑名に移封される際、正室の於久は次男・忠朝のもとに残し、側室の乙女だけを桑名に伴ったと言われています。
このことからも、側室の乙女とのほうが、幼くして父を亡くしている境遇も似ていることから、気持ちが通いやすかったのかもしれませんね。

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本多忠勝の子孫はいるの?


本多忠勝には桑名を相続した長男の忠政、大多喜を相続した次男の忠朝の2名の男子に恵まれ、それぞれの系統が江戸時代を通して存続しました。
忠政の系統は岡崎藩(三河国)と泉藩(陸奥国)が、忠朝の系統は山崎藩(播磨国)として幕末を迎えています。

忠勝の子孫は現代でもいらっしゃいます。今の当主は31代目の本多隆将さんという方で、浜松市が主催したイベントで、徳川四天王の末裔としてゲストに迎えられた事があります。

また、本多忠勝の末裔で11代目当主の本多忠粛(ほんだただとし)は岡崎藩主に任命されているのですが、この地にある本多家の邸宅が「旧本多忠次邸」として一般公開されています。本多忠次は17代目当主の次男にあたる人物です。
これ以外にも数多くの分家があるので、忠勝の子孫は日本各地にいらっしゃるのでしょうね。

その一方で、江戸時代を通して本多家は波乱万丈でした。

後継ぎがおらずお家断絶の危機に瀕したり、減封や相次ぐ移封などで財力が衰えたり、後の当主たちも若死にしたりと、常に何かの危機に襲われていたようです。

また、忠勝以降の本多家は9回も藩が変わっています。
幕府創設の大功労者なのにこの扱いは可哀想な気がしますね。

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この記事のまとめ


本多忠勝の武将としての才覚は、父親で若くして亡くなった本多忠高ゆずりのものだったのだと思います。

その武勇をもって家康の天下統一に貢献した忠勝ですが、その子孫は江戸時代にお家断絶の危機に瀕するなど、何かと苦労が絶えなかったようです。
また、忠勝には正室の於久と側室の乙女という2人の妻がいて、正室の間には2人の息子が、側室との間には後に真田信之に嫁ぐ小松姫が産まれています。

※参照:真田信之と稲姫の子供まとめ!その後の真田家はどうなった?

忠勝の子孫は岡崎藩など日本各地で存続しており、現代は31代目の本多隆将さんが本多家の当主を務めています。
ただお家断絶や減封、藩主の若死など、生き残る上での苦労も多かったようですね。