織田信長、豊臣秀吉という天下人に帰依し、侘び茶の世界を完成させた男・千利休。
そんな利休ですが、秀吉の命令によって切腹という壮絶な最後をとげました。
利休は秀吉と友好関係にあったのに、なぜ切腹を命じられてしまうのでしょうか。
未だ多くの謎を抱える戦国のミステリー「千利休の切腹」について、有名な7つの理由を検証してみようと思います。
目次
その1:大徳寺に自分の木造を置いたため
大徳寺とつながりが深かった利休は、古くなった大徳寺の山門を改修するにあたり資金援助を行いました。これに恩義を感じた大徳寺の住職・古渓宗陳は、感謝の意を表すために利休の木造を作り、山門の上に安置しました。
ところが、これに激怒したのが秀吉です。秀吉は、山門の上に利休の像があるということは、貴人たちが山門をくぐった際、利休が貴人の頭を踏みつけているのと同じであり、非常に無礼な行為だと主張します。秀吉の主張は言いがかりに近いものでしたが、利休が一切弁明することがなかったため、そのまま切腹を命じました。この事件は、利休が切腹を命じられた表向きの理由として、当時から現在まで広く語られています。
※参照:千利休の最後について解説。黒幕は石田三成?利休忌とは?
その2:娘を秀吉の側室に出すのを拒んだため
秀吉の女性好きは当時から有名でした。その魔の手は利休の娘にも伸びてきます。
利休には2人の娘がいます。万代屋宗安に嫁いだ娘は創作上「吟子」という名前が与えられています。この吟子を気に入った秀吉が自分の側室として仕えるように命じたものの利休が拒否したため、怒った秀吉が切腹を命じたと言われています。この説は当時から噂話として巷でささやかれるものでした。
ただ、秀吉は何人もの側室を抱えているため、利休の娘にそこまで固執したとは思えません。したがって、この理由だけで切腹に至ったとするのはやや説得力に欠けますね。
※参照:千利休の2人の妻とその子供について解説!
その3;茶道に対する考え方で秀吉と対立したため
利休が大成させた「侘び茶」とは「わびさび」の精神に基づいたものであり、道具は質素なものを使い、茶室は「侘数寄」と呼ばれる狭くて最低限の光しか入らない造りを好みました。
一方の秀吉は黄金の茶室を作ったり、大茶会をたびたび開いたりと天下人の名にふさわしい華美な茶の湯を好みました。茶の湯に対するこうした感覚の違いが利休と秀吉の対立を生み出したと考えられています。
「侘び茶」の世界を確立した利休は茶の湯に対し絶対的自信を持っていたようであり、秀吉の華美な茶の湯に同調することはなかったみたいですね。それが秀吉には余計に不快に感じられたのではないでしょうか。
※参照:千利休の弟子について。利休七哲のメンバーや山上宗二とは?
その4:豊臣政権の政争に巻き込まれたため
秀吉との関係ばかり注目される利休ですが、実は秀吉の異父弟である豊臣秀長とも深い関係にあります。秀長は利休のことを父のように慕っており、利休が豊臣政権下で重用されたのは秀長の後ろ盾によるものだったと言われています。
この秀長ですが、利休が切腹をする数か月前に病死しています。豊臣政権下における後ろ盾を失った利休は、石田三成や前田玄以といった秀吉本人から重用されている武将たちの陰謀によって、些細なことを理由に切腹に追い込まれたと考えられています。
利休が権力と資産を持っていたことを考えると、「豊臣政権から利休を排除したい」という力が働いたとするのも納得できますね。
※参照:豊臣秀長の妻や子供について解説。養子の豊臣秀保とは?
その5:利休の個人資産や権威を秀吉が恐れたため
利休が活躍した時代は茶の湯に対する人気が高まる一方で、茶器や茶道具の値段や価値は明確に定められていませんでした。そのため、茶の湯に精通している利休が茶器の価値を自由に決めていました。これによって利休は自らの権威と発言権を高めていきます。
また、どんな茶器であっても利休の言い値によって価値が決まるため、利休はそれを利用して個人資産を蓄えていきます。
権力と富を手に入れた利休は、やがて高慢になったと言われています。秀吉は、茶器の価値を自由に決められる利休が権力と資産とを手に入れ、尊大に振る舞う姿を目の当たりにし、彼が豊臣家の地位を脅かす存在となることを恐れて切腹を命じたのかもしれませんね。
その6:堺の権益を守ろうとした事が秀吉の怒りに触れたため
利休が拠点にした堺(現在の大阪南部)は貿易の拠点であり、国内外の品物が行き交う町でした。秀吉はこうした交易を独占するため、堺に対して重税を課すなどの圧力を加えます。
これに反旗を翻したのが利休でした。利休は堺生まれであることから、堺の自治性や権益を守ろうと画策したと言われています。自らの政策に従わず、豊臣政権の利益よりも堺の権益を重視した利休に対し、秀吉は怒りを覚えたのかもしれませんね。
※参照:千利休の名字は田中!?生い立ちや辞世の句、忍者説に迫る!
その7:家康の間者として秀吉を毒殺しようとしたため
この理由は岡倉天心『茶の本』が初出です。なんでも、利休が修行を行った南宗寺は徳川家康と関係のある寺で、家康から依頼を受けた利休が秀吉を毒殺しようとしたというのです。
「あの家康ならありえるかも…」と疑ってしまいますが、もしこの理由が真実なら利休は切腹で済まされるわけがなく、即刻打ち首にされているはずです。利休と親交のあった武将たちが彼の死を惜しんだことも合わせると、この理由は信ぴょう性に欠けます。したがって、後世の創作であると言えるでしょう。
この記事のまとめ
千利休が切腹に至った理由とされるもののうち、有名な7つをご紹介しました。
・大徳寺に木造を置いたため
・娘を側室に出すのを拒んだため
・茶道に対する考え方で対立したため
・豊臣政権の政争に巻き込まれたため
・利休の個人資産を秀吉が恐れたため
・堺の権益を守ろうとした事が怒りに触れたため
・家康の間者として秀吉を毒殺しようとしたため
信ぴょう性の有無はあるにせよ、どの説も「ありえる!」と感じてしまいますよね。
切腹の理由が様々推測されることから、利休の切腹は当時から謎が多く、そもそも一つの理由だけによるものではなかったのかもしれません。戦国のミステリーである「千利休の切腹」について調べ、自分なりの答えをみつけてみるのも面白いのではないでしょうか。