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織田信長の子供って一体何人いたんだろう…こんな事が気になった経験ってありませんか?

少し知識のある方でも、長男の信忠、次男の信雄、三男の信孝以外の子供の名前についてはご存知でないかもしれませんね。

実は信長は20人以上子供がいたと言われています。

そして、子供たちの幼名の付け方が適当だという事でも有名でした。一体どういう事なのか?信長の娘に関する情報も含め、詳しくご紹介します。
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織田信長の息子の名前は?幼名おかしいと話題に?


織田信長の子供ですが、男子が11人または12人、女子が同じく12人、少なくとも20人以上いたとされています。

ちなみに、同世代の武将である豊臣秀吉の子供が男子3人、女子1人、徳川家康が男子11人と女子5人という事を考えると、49歳で亡くなっているにも関わらず、信長の子供の数は非常に多かったのではないかと感じます。

信長の子供の名前と簡単なプロフィールについて見ていきましょう。

庶長子 織田信正 幼名は於勝丸

信長の庶長子と言われてますが、実在した人物なのかはハッキリとしていません
信長死後は出家し、1647年に94歳で亡くなったと言われています。

長男 織田信忠 幼名は奇妙丸

産まれた時、顔が奇妙だっだという事からこの幼名が付けられたそうです。何だか可哀想…
信長存命中は長島一向一揆との戦いや信貴山城の戦い、甲州征伐などに従軍し、信長の嫡男と名乗るだけの働きをします。
しかし本能寺の変の後、二条城で明智光秀の軍と戦い自害。26歳の若さでした。

次男 織田信雄 幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)

茶筅」とは抹茶をたてる時の道具のこと。一体なんでこんな名前になったのでしょうか?
一時期は伊勢の北畠家の養子として「北畠具豊」と名乗っていました。
信長の息子の中ではあまりよい評判がありませんが、乱世を生き残る事には成功し、織田家の家系を今に至るまで伝えています。

三男 織田信孝 幼名は三七(さんしち)

幼名の由来は3月7日に産まれたから。適当すぎますね笑
一時期は伊勢の国人・神戸具盛の養子だったので「神戸信孝」とも名乗っています。
信長死後は柴田勝家と共に秀吉と戦いますが、賤ヶ岳の戦いの後に自害しました。

四男 羽柴秀勝 幼名は於次(おつぎ)

秀吉の養子となった信長の子供。
備中高松城攻めや山崎の戦いに従軍し、丹波亀山城主となりました。
小牧・長久手の戦いにも参戦してますが、1586年に18歳でなくなりました。

五男 織田勝長 幼名は坊丸

岩村城主の遠山家の養子となりますが、岩村城が武田家に落とされたため、甲府に人質として送られます。
後に織田家に返され、甲州征伐にも兄の信忠に従って従軍しました。
本能寺の変の後、信忠と共に討死。子孫は金沢藩に仕えたと言われています。

六男 織田信秀 幼名は大洞

「尾張の虎」と呼ばれた祖父(信長の父親)と同じ名前である信長の子供。
ペトロという洗礼名を名乗ったクリスチャンでした。
象牙のロザリオを首にかけ、秀吉の九州征伐に従軍した記録が残されています・

七男 織田信高 幼名は小洞

幼名を兄、信秀とセットで付けられたと言われています。小洞は「ごぼう」と読みます。なんて適当な…。
秀吉に仕え領地を与えられますが、関ヶ原の戦いでは西軍につき改易。1603年になくなります。
ちなみに元フィギュアスケート選手の織田信成は信高の子孫だと言われています。

八男 織田信吉 幼名は酌

幼名の「酌」というのは、母であるお鍋の方の「鍋」から付けられたそうです。母親の名前と言い、当時と今の感覚は全く異なったものではないかと思わざるを得ませんね。
関ヶ原の戦いでは弟の長次と共に大谷吉継の部隊に所属しますが、戦場を離脱。
その後は豊臣家を頼り、大阪城下で暮らしました。

九男 織田信貞 幼名は人

幼名が適当すぎて、信長お前何考えてるんだかと…。
秀吉の家臣となり、従五位下の官位を与えられました。
関ヶ原の戦いでは西軍について改易されるも、大坂の陣で徳川方につき、子孫は江戸幕府の旗本として続きました。

十男 織田信好 幼名は良好

「良好」って、一体何が良好だったのでしょうか。笑
生年は不明ですが、本能寺の変が起こった頃は幼少だったそうです。
秀吉に保護されその家臣となり、茶人として名が知られていたそうです。

十一男 織田長次 幼名は緑

緑と書いて「えん」と読むそうです。てっきり「みどり」かと思っていましたが…
関ヶ原の戦いで兄の信吉と大谷吉継の部隊に所属して戦死したと伝わっています。

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以上が信長の12人の息子たちです。

個人的には幼名がおかしくて笑ってしまいました。信長の命名センスって独特だと思いませんか?

ちなみに、今の織田家の直系は次男の信雄の子孫になります。また、これ以外にも信長の血を引く子孫は日本全国にいたるところに居るとされています。あなたの身近にいる人のご先祖様も、実は信長だったりするかもしれませんね。

織田信長の娘にはどんな人がいたの?


続いて、信長の娘についても見ていきましょう。

一体どのような女性たちだったのでしょうか?決して多いとは言えない資料の中からその詳細を探っていきます。

徳姫

信長の長女で徳川家康の長男、松平信康の妻でもあります。
一説では、夫である信康の切腹の原因は、徳姫との仲がこじれた事にあると言われています。
娘が2人おり、それぞれ小笠原秀政、本多忠政に嫁いでいます。

相応院

信長の次女で蒲生氏郷の妻。
(相応院を長女、徳姫を次女とする場合もあります)
冬姫(ふゆひめ)という名前が小説などで用いられる事がありますが、実際このように呼ばれていたかの根拠はありません。
蒲生家が改易された後は京都で暮らし、1641年に81歳でなくなりました。

秀子

信長の三女。一説には明智光秀の娘で信長の養女になったと言われています。
筒井順慶の養子である定次の妻になりました。

永姫

前田利家の子、利長の妻になった信長の四女。
夫とは仲が良かったものの子供は出来なかったため、前田家は利長の弟である利常が後を継ぐ事になります。
夫の死後は剃髪して玉泉院と名乗り、1623年に50歳でなくなりました。

報恩院

信長の五女で丹羽長秀の長男、長重の妻になりました。

於振

信長の娘である事は分かっていますが生年は不明です。
水野忠胤、そして佐治一成の妻になりました。

源光院

公家の万里小路充房の正室になった信長の娘です。

三の丸殿

信長の六女で豊臣秀吉の側室になった女性です。
秀吉が最晩年に催した「醍醐の花見」では、北政所、淀殿、松の丸殿(京極竜子)に続く、4番目の輿で参加したと伝わっています。
秀吉死後は公家の二条昭実の継室になりますが、1603年になくなっています。

鶴姫

信長の娘だそうですが、中川秀政の妻になった事、そして子供が出来ないまま若死した事くらいしか分かっていません。
筒井定次の妻となった秀子と同一人物という説もあります。

慈眼院

信長の娘とされてる女性ですが、資料も少ないため娘ではない説もあります。
1582年の3月頃、北条氏直に輿入れする話が浮上したと言われてますが、信長死去により縁組は消滅したようです。

月明院

公家の徳大寺実久の妻になったとされていますが、こちらも資料が少ないようです。
息子の徳大寺公信は従一位・左大臣まで昇進しています。

足利夫人

秀吉の命令で足利義昭の側室になったとされている女性。
実は信長の側室だったのではないかと言われています。

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以上が信長の娘とされている女性たちです。

徳姫や相応院、永姫の名前は聞いた事はあったのですが、それ以外の女性については何も知りませんでした。

戦国時代である以上、やはり女性に関する記録は男性と比べると少ないことが伺えますね。

この記事のまとめ


信長の子供の名前を1つの記事にまとめてみました。個人的には一部の息子の幼名がおかしい事が最も印象に残りましたね。

75歳で亡くなった家康の子供が16人、61歳で亡くなった秀吉の子供が4人である事を考えると、49歳で亡くなった信長の子供の数がいかに多いかが分かります。あまり言われてない気がしますが、信長はかなりお盛んだったのでしょうか…?

なお、信長の家系図については以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:織田信長の家系図をわかりやすく解説!