今回は、銀閣寺について考えてみたいと思います。正確には慈照寺・観音殿と呼ばれるこの建物は、室町幕府の8代将軍・足利義政によって建てられました。

銀閣寺は、どんな歴史をもっているのか、作られた理由や名前の由来はどこにあるのかといったことを、なるべく分かりやすく解説していきます。

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銀閣寺の歴史を簡単にご紹介。


足利義政は、1473年に息子・義尚に将軍職を譲ると、そのまま隠居してしまいます。同時に東山の月待山麓に銀閣寺を建てはじめます。

この場所には、かつて浄土寺という寺があり、応仁の乱で焼失していたのでした。


義政の心の中には、祖父である足利義満の金閣寺にあやかりたいという思いがあったのかもしれません。その一方で、戦乱の中で京の都も荒廃し、幕府財政も決して豊かではない中での建築だったため、義政は臨時の税金や労役という民衆に負担を押しつける形で工事に着手してしまいます。

そうした中でも義政は書画に囲まれ、茶の湯に親しむなどの風流な生活を送っていたのだそうです。義政の政治能力に対する疑問符がここでも出てきてしまうわけです。


翌年、いまだ収まる気配のない応仁の乱により、足利将軍家の邸宅であった花の御所が焼失すると、富子と将軍・義尚が小川殿に入ります。これを受け、義政自身は即座に銀閣寺に移住しており、義尚・富子との関係が悪化していたことが伺えます。

しかし、8年続いた工事の完成をみることもなく、義政は1490年に死去しています。その後、義政を弔うため、銀閣寺は相国寺の末寺に改められ、慈照寺と呼ばれるようになりました。

義政死後の銀閣寺は、室町幕府の衰えと共に衰退していきます。1550年には、13代将軍・足利義輝と当時の権力者であった三好長慶との争いにより、建物の多くが焼失する事態も発生しました。ただ江戸時代になると徳川幕府から援助が行われ、現在でも残る庭園が築かれていきます。建物の多くも修復されました。

銀閣寺は明治維新の時代に行われた廃仏毀釈によって再び衰退するも再度復興をとげ、1994年には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。

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銀閣寺が作られた理由は義政のやる気のあらわれ!?


それでは、銀閣寺が作られた理由は一体何だったのでしょうか。

銀閣寺が築かれた足利義政の時代の室町幕府は深刻な財政難にありました。それにも関わらず、なぜ義政は銀閣寺の建築に踏み切ったのでしょうか。

その理由を、政治の世界から逃げ風流な生活をして余生を過ごすためだった、とする説があります。しかし、義政が望めば、そのような場所は他にいくらでもあったでしょう。


銀閣寺は、義政の祖父である3代将軍・足利義満の北山殿(鹿苑寺金閣)を意識して建てられたと言われています。もともと、将軍職を継いだ時点では6代将軍の足利義教のような強い将軍像を理想としていた義政のことです。室町幕府の最盛期といわれる義満にあやかろうとしたとしても、何の不思議もありません。

だとすれば、義政はこの銀閣寺を足掛かりに大御所政治を行うつもりだった、とみる方がむしろ自然ではないかと考えられます。

※参照:足利義満ってどんな人?年表や金閣寺を小学生向けに解説!


1489年、これは義政の死の前年ですが、六角氏討伐の陣中にあった9代将軍・義尚が病死をしています。この時、義政は政治への復帰を目指しました。

結局は、妻の富子に反対されたばかりか、義政自身が中風の病に倒れたため、10代将軍を指名して表舞台からは完全に姿を消すことになりますが、少なくともこの時まで、義政のやる気は続いていたのだろうと思います。

もっとも、そのことと政治的な手腕が義政に備わっていたかどうかということは、まったく別の問題であると言えますが…

※参照:足利義政ってどんな人?年表や応仁の乱を小学生向けに解説!

銀閣寺の名前の由来とは?


いわゆる銀閣寺と呼ばれている建物は、正確には慈照寺・観音殿といいます。
ちなみに、色んな意味で比較される北山にある金閣寺は、正確には鹿苑寺・金閣です。

寺になったのは義満、義政の死後であり、金閣寺(鹿苑寺)の名前の由来は義満の法名「鹿苑院」から、そして銀閣寺(慈照寺)の由来は義政の戒名「慈照院」から名付けられています。


また、「銀閣」の名前の由来は、義満の金閣に対して江戸時代につくられた呼び名だそうです。
当時は「銀閣寺」「銀閣」ともに呼ばれていなかったということですね、

銀閣寺にそもそも銀箔をはる予定があったのか、なかったのかという議論は昔からあったようです。さらに、かつて貼られていたがはげ落ちてしまったという説もありました。

その後の調査で、外壁には銀箔を貼られたあとがないことが分かっています。また、義政のこの時代には「銀閣」という言葉すら存在していないので、銀箔を貼るような計画はなかったのではないかと考えられます。室町幕府の財政状況の厳しさを考えると、銀箔を貼るのは難しかったでしょう。


また、慈照寺(義政の時代には銀閣寺という複合施設ですが)に代表される東山文化のことを考えれば、この慈照寺観音殿に銀箔が貼られていたと考えるほうが不自然だと思うのですが、それだけ「銀閣」という名前のインパクトが強いのでしょうね。

銀は銀でも「いぶし銀」と呼ばれれば、しっくりくるのかもしれませんね。

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この記事のまとめ


銀閣寺の歴史や作られた理由、その名前の由来についてご紹介しました。

現在では世界遺産に登録されている銀閣寺ですが、もともとは足利義政が政治の表舞台へ復帰するために造られたという説があります。実際には上手くいきませんでしたが、この建物は東山文化の象徴として、当時から知られていました。

また、この建物が「銀閣寺」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことです。
金閣寺を由来としているこの建物の正式名称は、義政の戒名がもととなった「慈照寺」です。


なお、以下の記事では、銀閣寺と対として語られる事が多い「金閣寺の歴史」について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:足利義満が金閣寺を建てた理由やその後の歴史。頂上の鳳凰とは?