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天下人といえば、信長、秀吉、家康の3人衆というのが日本史の定番といえますが、実はもう一人、信長より前に「最初の戦国天下人」と言われたのが戦国大名・三好長慶です。

「戦国の下剋上の典型」ともいわれる三好長慶ですが、その生涯をたどっていくと、一方ではその早熟性、そして他方では身近な人に先立たれた晩年が見て取れます。

今回は、三好長慶の略歴やその子孫についてご紹介します。
また、三好家の家紋についても見ていきましょう!
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三好長慶の略歴についてわかりやすく解説!


まずは三好長慶の略歴について見てみましょう。

三好長慶は1522年、阿波・山城の守護代を務めていた三好元長の子として生まれました。三好家は室町幕府管領として絶大な力を持っていた細川家の臣下として仕えており、長慶の父・元長も管領・細川晴元の有力な重臣であり、晴元と同じく幕府の管領として権力を争う細川高国を滅ぼした功労者でもありました。
しかし、その有能ぶりを恐れた主君・晴元や一族の三好政長・木沢長政らの策謀により蜂起した一向一揆によって、父・元長は1532年に堺で殺害され、当時10才の長慶は母と共に阿波へ逃げ延びます。

その2年後、長慶はわずか12歳で、勢力を増し抑えのきかなくなった本願寺の一向一揆衆と細川晴元との仲介を行い、両者の講和に尽力したと言われています。おそらく周囲の補佐もあったのでしょうが、わずか12歳でこれだけの大仕事を行うのですから、非常に早熟な少年だったのかもしれませんね。

1539年、長慶18才のときには、かつて亡父・元長の領地であった河内国を取り戻すために大軍を率いて上洛し、将軍足利義晴や主君・細川晴元を近江国に追いやりますが、近江国の六角定頼の仲介により和睦し、長慶は摂津国越水城主となります。

これまで、三好家当主はあくまで阿波を本拠地とし、近畿地方で苦境に追い込まれると四国に退いて再起を期していましたが、長慶はこの入城以降は生涯阿波には戻らず、摂津を新たな本拠として中央での勢力争いの中心となっていきます。立場上は幕府管領の重臣でしたが、実際には将軍までもをおびやかす摂津・河内・北陸・近江・阿波の軍勢を動かす強大な軍事力を握るようになりました。

1542年には、同じ晴元の家臣で最大のライバルであった木沢長政を、河内太平寺で敗死させます。その5年後には晴元と対立する細川氏綱および遊佐長教の連合軍を、摂津舎利寺の戦いで破ります。そして、その勢いで、晴元から離反して、今度は氏綱を擁立します。
1549年の江口の戦いでは弟の十河一存らが亡父の事実上の仇・三好政長を攻め自害に追い込み、将軍の足利義晴、足利義輝父子と主君の管領・細川晴元を追い出して、細川氏綱を管領に就かせて、自身が実権を握り三好政権を樹立。これによって長慶は、天下人となったと評されます。


その後数年間は、将軍足利義輝や細川晴元らと交戦と和睦を繰り返しました。そして1553年、義輝・晴元連合軍を、京都霊山に破り、将軍らを近江へと追放しました。これから1558年末まで、畿内の最高権力者として専制政治を敷いたとされています。その領国は、山城・丹波・摂津・和泉・淡路・讃岐・阿波の7か国にまで及びました。

しかし晩年は、その覇業を支えた弟たち(十河一存・三好義賢)の戦死、さらに1563年には嫡男である三好義興が病死するなど、家庭内で様々な不幸に見舞われます。これに対して長慶はうつ病になったとされ、また翌年には生き残った弟である安宅冬康にも自害を命じてしまいます。
そして同じ年、長慶は43歳で病死しました。

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三好長慶の子孫はいるの?十河と長宗我部の夢の共演!?


それでは、その後の三好家はどうなったのでしょうか?
長慶の子孫がいるのかについても気になる所です。

長慶には嫡男の義興以外には男子がいなかったので、弟の十河一存の長男である義継を養子へ迎えました。しかし義継はまだ若かったので、その後見人として松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通ら)が三好家の運営を行う事になります。しかし、織田信長に反抗したため、義継は1573年に信長によって攻め滅ぼされてしまいます。この段階で、戦国大名としての三好家は滅亡する事になります。
また、長慶には松永久秀に嫁いだ娘がいるのですが、その間には子供はいなかったため、長慶の直系の子孫、また血を引く者はいないという事になります。

長慶の弟たちの子孫はどうでしょうか。2番目の弟、三好義賢の子供であり、4番目の弟の十河一存の養子となった十河存保(まさやす)は、本能寺の変の後で三好家を継ぐ事を示しますが、これは天下人となった秀吉には認められませんでした。そして、島津家との戦いで存保は戦死し、彼の家系も潰えています。

ただ、長慶によって滅ぼされた三好政長の子供である三好政勝の一族は、江戸幕府に旗本として仕え、その家系を存続させたと言われています。また十河家にも子孫の方がいるようで、2014年にはかつて戦った長宗我部家主催のイベントに参加した事もあったようです。


当時の動画が残されていました。

この他には、近畿一帯や尾張・因幡・美濃・武蔵・伊予に、三好の末流と称する家が広まっています。詩人の三好達治も、その1人といわれています。

三好長慶の家紋「三階菱に釘抜」の由来とは?


最後に、三好家の家紋についてご紹介します。

三好長慶が使った家紋は「三階菱に釘抜」と呼ばれるものです。
(さんがいびしにくぎぬき、と読みます)

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この家紋の由来ですが、上の「三階菱」紋と下の「釘抜」紋を組み合わせたものだと考えると分かりやすいと思います。


まず三階菱紋は、三好家の先祖とされている小笠原氏が使っていた家紋だと言われています。鎌倉時代に、小笠原は阿波国の守護を務めていて、その末裔が三好郡(現在の徳島県東みよし町)を治めていた事から、三好という姓を名乗るようになったと言われています。ちなみに三階菱紋を使っている人物には、幕末から明治時代に活躍した、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎が挙げられます。

一方の釘抜紋は文字通り、釘を抜くための「釘抜き」を形取った家紋です。比較的わかりやすいデザインだったので敵味方の区別が付けやすかった事や、「九つの城を抜く」という言葉の掛け合わせが出来る点が、当時の武将たちに好まれたと言われています。三好長慶以外にこの釘抜き紋を使っている武将には、堀秀政や田中吉政といった名前が挙げられます。

また釘抜紋は四国地方に多い家紋とも言われています。三好家はこの2つの家紋を組み合わせることによって、小笠原氏の流れを汲む四国の武士である事を示したと考えられています。

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この記事のまとめ


三好長慶の略歴やその子孫、そして三好家が活用した家紋についてご紹介しました。

子供の頃からその才能を大いに発揮した長慶でしたが、その死も早すぎるものでした。長慶の葬儀には、かつて世話になった人々が参列し、皆が涙を流したと言われています。晩年は精彩を欠いたとは言え、その名君ぶりがしのばれる光景だと感じますね。

なお、以下の記事では長慶に仕えた松永久秀のアレコレを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:松永久秀の家紋や子孫について解説。織田信長からの評価は?