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天下人豊臣秀吉に忠義を尽くした石田三成。知略に長けた武将として名高い彼ですが、その類稀なる才能をその秀吉によって見出されたのをご存知でしょうか?


それを物語るある逸話が残されています。
そのエピソードが「三献茶」といわれるものです。


今回は「石田三成とお茶」というテーマで、この三献茶のエピソードと、盟友である大谷吉継とのお茶にまつわる逸話、そしてその真偽についてご紹介します。
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石田三成のお茶のエピソードである「三献茶」とは?


石田三成とお茶のエピソードと言えば、少年時代の彼がのちの主君・豊臣秀吉との出会いを果たすエピソードである「三献茶」の話が有名ですね。

これは「武将感状記」という書物に記された逸話なのですが、これを分かりやすくストーリーにするとこんな感じになります。

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現在の滋賀県にあった長浜城主となった豊臣秀吉が、ある日領内で鷹狩をした帰り喉が渇き途中にあった寺に立ち寄ってお茶を頼みました。

そのとき対応した寺の小姓がまず持ってきたのが、大きな茶碗いっぱいのぬるめのお茶。
喉が渇いていた秀吉はそれを一気に飲み干し、もう一杯お茶を頼むことにしました。

次に小姓はさっきよりもやや小ぶりな茶碗に少し熱いお茶を半分ほど入れて持ってきます。
ゆるりとそれをまた飲み干し、秀吉はもう一度お茶を所望。

そして最後に小姓が出したお茶は小ぶりの茶碗に熱く点てたものでした。
この相手が欲しているものを瞬時に察知して対応するという小姓の働きにひどく感動した秀吉はそのままこの小姓を城に連れ帰り家臣としたのです。

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この小姓こそ、のちに智の戦国武将と呼ばれる石田三成だと言われています。

石田三成のお茶のエピソードは後世の創作だった!?


この三献茶のエピソードですが、実はその真偽を巡ってたびたび議論が交わされています。
ここからは、それを解説してみましょう。

まず、この逸話の舞台となった寺ですが、これには2つの説あるのです、
現段階では大原の観音寺と古橋の法華寺が有力とされています。

特に観音寺には「三成茶汲みの井戸」なるものまで存在するのですが、三成の長男である石田重家が記したとされる書物「霊牌日鑑」によると、三成が秀吉に仕えるようになったのは姫路にいた18歳の時という記載があるため、この「三献茶」の逸話とは噛み合いません。

※参照:石田三成の妻「皎月院」について。父親や子供についても解説


そもそも、三献茶のエピソードが掲載されている「武将感状記」という書物ですが・・・
実はこれ、江戸時代中期に書かれたものなのです!

三成存命の時に書かれたものではないとすると、やはり信憑性は低くなりますよね…


また、かの関ヶ原の合戦のあと天下を継いだ徳川側に、敗者三成はあることないこと噂を流された結果、今でも彼は悪名高い武将としても定着してしまっていますが、この三献茶のエピソードも「あの石田三成って実は小僧出身なんだってよ」と三成を貶めるために作られたものではないかとも言われています。

ただ一説では、秀吉の正式な家臣となったのが18歳の姫路であり、それまでは確かに小姓であったとする話も存在するため、やはり実話だったのでは…という説もあるようです。

どちらにしろ、この三献茶のエピソードは、石田三成が機転の利く人物であったことを後世に伝える代表的な逸話であることは間違いありません。

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石田三成と大谷吉継。お茶にまつわる逸話とその真偽は?


石田三成にまつわるお茶のエピソードと言えば、関ヶ原の合戦で共に戦った盟友、大谷吉継に関するものも有名です。
最後に、この二人の友情にまつわるお茶のエピソードをご紹介します!

当時の茶会の通例として、武将が茶碗を回し飲みしていたという事が挙げられるのですが、多くの武将はハンセン病を患っていた吉継の後にお茶を飲むことを嫌がり、ひどい時は飲むマネだけをするなどの行為をする者もいました。

※参照:大谷吉継の病気はいつから?刀や関ヶ原での名言について!


そして1587年の大坂城で行われた茶会でのこと、いつものように吉継の番になった時でした。
なんと吉継の鼻水(または膿)がお茶の中に落ちたのです…

ただでさえみんな自分の後に飲むのを敬遠しているのに、まさか自分の鼻水の入ったお茶を誰が飲むだろうかと吉継が呆然としている時でありました。

三成が「吉継殿、早くお茶を回してもらえないだろうか」と言って強引に吉継から茶碗を取り一気に飲み干したのです。
これに感動した吉継は「我が命は三成公に捧げよう」と三成軍として関ヶ原に出陣する決意を固めたと言われています。


しかし・・・この逸話の出処ははっきりと分かっておらず、この大谷吉継とのお茶のエピソードも江戸時代に入ってからのものとする説が有力です。

また明治時代に書かれた書物には秀吉の逸話として紹介されていたり、吉継の病気も梅毒や眼病とする説もあり、やはりこの逸話も真偽のほどは分かりません。

ただこれが実話なら男の厚い友情にちょっと感動してしまいそうです!
そしてこちらも三成の器量の良さを計るには十分なエピソードと言えますね。

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この記事のまとめ


石田三成とお茶」というテーマで、三献茶や大谷吉継とのエピソードやその真偽について解説してきました。

こうした逸話は、石田三成の機転の良さや人柄を表すものとして有名ですが、書物の内容と史実に矛盾があったり、またこれらの資料が書かれた江戸時代の背景を考慮すると、残念ながらその信憑性は低いと考えられます。

ただ、こうした逸話が現在にも残っているという事は、三成の才覚や人柄は本物だったのではないかとも思いますね。


そんな三成の人柄を示すエピソードとして、豊臣秀次の切腹後、その配下であった「若江八人衆」のメンバーの多くが三成に従い、関ヶ原の戦いで彼のために働いたという逸話があります。

以下の記事で詳しく解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:豊臣秀次の切腹と石田三成の関係は?若江八人衆のその後も解説!