忍者の里と言えば、甲賀忍者と伊賀忍者の2つが有名ですね。この2つの忍びの里は、山を挟んで隣町にあるにも関わらず、その特徴は大きく異なっていました。
甲賀忍者と伊賀忍者の違いはどのような点にあったのでしょうか。
織田信長や江戸幕府との関係も含めて、その違いを5つに分けてご紹介します!
目次
甲賀忍者と伊賀忍者の組織運営の違いとは?
甲賀忍者と伊賀忍者の違いですが、その組織運営の方法に大きな違いがあったそうです。
甲賀忍者は「惣」と呼ばれる共同体だったと言われてますが、そこに参加する者の立場は対等なものだったと言われています。里として意思決定を行う際も、多数決によって運営を行っていました。今で言う民主主義に近いですね。
一方の伊賀忍者も共同体によって組織の運営を行っていましたが、その意思決定は「上忍三家」と呼ばれる3つの有力者の意向が大きかったそうです。「上忍三家」は服部半蔵を輩出した服部家、織田信長に抵抗した事で知られる百地三太夫を輩出した百地(ももち)家、武田信玄の軍師であった山本勘助に忍術を教えたとされる藤林長門守を排出した藤林家の3家から成り、それ以外の家はこの「上忍三家」の意見を聞き入れる事が多かったそうです。
依頼主との付き合い方が異なっていた甲賀忍者と伊賀忍者
2つ目の違いとしては、依頼主との付き合い方が挙げられます。
まず甲賀忍者の特徴として、依頼主を特定の家に絞っていた点が挙げられます。
その背景には、甲賀忍者の起源が影響していると言われています。彼らは、もともと守護大名の佐々木六角氏の配下だった地侍だったので、特定の大名との主従関係をハッキリさせる面があったのだと思われます。
その一方で、仕える大名が没落すると、甲賀忍者は仕える主をコロコロと替える一面もありました。彼らは手を組む大名を佐々木六角氏から織田氏、豊臣氏、徳川氏と次々と変えています。
一見すると節操が無さそうに見えますが、これは甲賀忍者が、時代を読む力があった証明だとも言えるでしょう。
一方、伊賀忍者は甲賀忍者と異なり、依頼があれば複数の大名に忍びの者を派遣していました。戦が起こり、双方から要請があった場合には、それぞれの依頼に応えていたそうです。仲間同士であっても関係がないことから、非常に厳しい環境にあった里と言えそうですね。
それぞれが得意としていた忍術の違いとは?
この2つの里の違いとして、得意とした忍術の違いも挙げられます。
甲賀忍者は医療や薬に精通していた忍びでした。普段の生活では、お守りや薬を売り歩くことで、諜報活動を行っていました。現在、甲賀市は薬の町として製薬会社が多くあります。甲賀忍者の遺伝子が街に根付いているようですね。
一方、伊賀忍者は、催眠術や手品を含む呪術を得意としています。山に囲まれた盆地であったため、亡命者が多かったことが影響しています。両手で印を結ぶ「九字護身法」とうい技や、印を結び呪文を唱える「印明護身法」と呼ばれる技、そして天・龍・虎といった文字を手のひらに書き、飲み、握るなどを行った十字の秘術などが有名です。
また、火薬の材料を入手しやすく、火薬の調合に精通していたことからも、火遁の術も得意としていました。自身の姿を隠す火薬玉、火矢や狼煙を使用していたようです。伊賀忍者は、一般的に「忍者」と言われて想像するイメージに最も近いのではないでしょうか。
織田信長との関係は?親密な甲賀忍者と険悪な伊賀忍者
織田信長との関係においても、この2つの忍びの里は正反対でした。
甲賀忍者は、織田信長と親しい関係にありました。もともと彼らは、佐々木六角氏と同盟関係にありましたが、佐々木六角氏の先行きが怪しくなると力をつけていた織田信長に接近します。信長が伊賀忍者を攻め込む際には、これに協力した事もありました。
一方、織田信長と険悪な関係であったのが伊賀忍者です。織田家との戦いを天生伊賀の乱と呼びますが、2度にわたる戦いで里が壊滅状態になるなど、かなり手を焼いていました。
最初の戦いでは、伊賀忍者の下山甲斐による裏切りがきっかけでした。彼が、信長の次男である信雄に、伊賀忍者の情報を告げることで、戦が始まりました。しかし、伊賀忍者はいち早く情報を入手し、奇襲に成功したことで乗り越えました。
2回目の戦いは、信長が信雄の失態に激怒し、自ら大軍を率いて攻め込みました。
伊賀忍者は迎え撃とうとするも、再び裏切り者が出てしまい、伊賀の城への侵略を許してしまい、争いが終結しました。
江戸幕府との付き合い方は?伊賀忍者は厚遇されたが…
甲賀忍者と伊賀忍者は、江戸幕府との関係も異なっていたと言えます。
本能寺の変の勃発後、堺にいた徳川家康は伊賀出身の服部半蔵らに守られて三河国に戻りました。この功績によって伊賀忍者は江戸幕府、そしてこの地を治めた藤堂家の支配下に組み込まれていきます。一方で島原の乱やペリー来航時には偵察を行うなど、伊賀忍者はその支配下で大いに活躍していたそうです。余談ですが、伊賀出身で「奥の細道」の作者でもある俳人の松尾芭蕉は、一説では忍者だったとも言われています。
※参照:松尾芭蕉ってどんな人?年表や奥の細道を小学生向けに解説!
一方の甲賀忍者は秀吉に仕えていた時期に、徳川家康を監視する任務を与えられていました。
そのため、家康の命令を受けた伊賀忍者と戦う事が多く、この事が「甲賀忍者 vs 伊賀忍者」という構図になり、講談や読本の題材になったそうです。江戸時代になると、甲賀忍者の生活は苦しくなり、武士の身分を獲得するための嘆願を行った事もあったそうですが上手くいきませんでした。こうした事情もあり、幕末に戊辰戦争が発生すると新政府軍に加わり、庄内藩との戦いで戦果を挙げたと言われています。
※参照:天草四郎ってどんな人?年表や島原の乱をわかりやすく解説!
この記事のまとめ
甲賀忍者と伊賀忍者の違いについて、以下の5点を挙げて解説しました。
・組織運営の違い
・依頼主との付き合い方の違い
・得意としていた忍術の違い
・織田信長との関係
・江戸幕府との関係
山を挟んで隣にある甲賀忍者と伊賀忍者ですが、その考え方が大きく異なりますね。
ただ個人的には、厳しい組織運営や仲間同士で敵対する事をいとわない伊賀忍者の方が、一般的な「忍者」のイメージに近いのかなと感じました。
[…] とそのライバルの甲賀忍者の違いを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。 ※参照:甲賀忍者と伊賀忍者の違いとは?織田信長や江戸幕府との関係も解説! […]
川口善巳と申します。
祖先は、武田信玄公の家来です、諏訪湖の出身、湖から川に出場所が、川口ですネ、
菊川市潮海寺の八阪神社は、武田信玄公が焼き払いました。
その後、祖先がこの地で、武田資金の運営して、武田軍支援の武器、食料、馬など、調達して、武田軍資金をこの地の為にも役立てました。
武田方が滅亡後は、武田方、家来衆とこの地に、留まります、徳川家康公 家来衆?服部半蔵の家来が、武田方を見張りを住居近辺に移住した、潮海寺には、服部の名字が多いですヨ。
武田方の祖先の方々は、祖父には、教えて、はくれませんでした。 ( 潮海寺の服部は、日陰者、日影、日蔭、と言われています。 )
六角氏頼の庶子の三男から出た高宮氏は藤堂氏と近い愛智氏系六角氏と言われていますがその一族は浅井氏に仕え滅亡後一部は加賀前田氏に仕えまた一部は山形楯岡へ移動しました。高宮は多賀大社の多賀宮から由来がきてるそうですが甲賀忍者は多賀大社の札を配ったり薬を売ったりと記事にありますが山形の高宮氏も薬を売っていました。ここからが問題なのですが、高宮家から高宮元吉最上徳内という人が出ました。どうも公儀隠密だったようで蝦夷の探索で有名ですが
彼が現地蝦夷で雇った上原熊次郎という通詞と徳内は文の遣り取りをしていて上原は徳内との遣り取りでは「甲賀熊次郎」と名乗っていました。甲賀は何世代にも渡って現地に住んで情報を獲得していたのではないでしょうか?またネットワークがあったのではないでしょうか?高宮元吉も甲賀の忍家から優秀な若者が出ると選抜されて隠密としてトレーニングを受けたのではないでしょうか?彼は農家や商人を経て大奥添番など御家人として仕えましたが甲賀忍者のほうがもしかしたら幕府で人に知られることなく活躍してたのではと思います!(間宮林蔵の間宮氏も佐々木一族ですよね)
最上徳内の出自を怪しんだ水戸藩は木村謙次という医師を隠密として山形や青森に派遣し蝦夷にも加わらせています。親族の水戸藩にも知られていない甲賀忍者と幕府のネットワークがあったと私は予想しております。
追加:知られていませんが藤堂正虎などが名乗った愛智氏は「愛智秦氏」のことです。
忍術は佐々木氏(六角や京極)が持っていた術のようですが佐々木氏と同族化していた愛智「秦氏」の技術やネットワークが背景にあったのではないでしょうか?藤堂正虎の石垣など築城技術や最上徳内の鉱山探索の知識などどこからきたのか?を考えると秦氏がキーワードではと思いました。
[…] 甲賀忍者の忍術についても記されており、忍術に関する書物としては最も有名なものとされています。 ※参考:甲賀忍者と伊賀忍者の違いとは?織田信長や江戸幕府との関係も解説! […]