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「軍神」「毘沙門天の化身」という敬称でも知られる上杉謙信は、生涯で70回以上戦いながら2回しか負けなかったほど、戦いに長けた戦国大名の1人です。

そんな謙信とは、一体どんな人だったのでしょうか。上杉謙信の生涯を年表を通して紹介すると共に、ライバルと言われる武田信玄との関係についても解説します。
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上杉謙信ってどんな人?わかりやすく解説!


まずは上杉謙信がどんな人だったのか、簡単に見ていきましょう。

上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)の戦国大名です。1530年に越後国の守護代を務めていた長尾家の4男として生まれ、初めは長尾景虎と名乗っていました。その後、その後、兄の養子となる長尾家の家督を継ぎ、当時関東管領だった上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と改名をして関東管領の役職も引き継ぎました。

また、上杉謙信はその生涯で70回も戦ったと言われており、その中で敗北したのは1回(あるいは2回)だけだったと言われてます。謙信が戦った相手には武田信玄や北条氏康、織田信長といった有名な武将をはじめとして、蘆名盛氏や能登畠山氏、越中一向一揆など様々な勢力がいました。

特に武田信玄との5回にわたる「川中島の戦い」は有名ですね。その上で謙信が凄かったのは、こうした戦いで一度も敗北と言える戦いがなかったこと。そのため、戦国武将たちは彼のことを「越後の虎」「軍神」などと呼び、その武勇をおそれ、たたえました。

また、上杉謙信は戦国大名としては珍しく、生涯で1度も結婚しなかった人物でした。そのため「上杉謙信は実は女性だったのでは?」という説もあります。ただ、女性と1度も関係を持たなかったかどうかは怪しく、きちんとした資料はありません。

※参照:武田信玄の年表と代表的な3つの戦いを簡単にまとめてみた。

上杉謙信の年表をわかりやすくまとめてみた。


ここからは、上杉謙信の年表を簡単に振り返ってみましょう。


・1530年2月18日:
越後国守護代の長尾為景の4男として生まれ、幼少時は虎千代と名乗りました。


・1536年8月:
父、為景が隠居し、兄である晴景が家督を継いだために林泉寺というお寺に預けられます。教養や兵学を学び、特に兵学に興味を示し、武将としての礎を築きました。


・1542年12月:
父、為景が病役し、兄の晴景が長尾家の家督を継ぎます。


・1543年8月15日:
虎千代は元服し、長尾景虎と名乗り、9月には晴景の命で三条城、次いで栃尾城に入りました。


・1544年春:
越後の豪族が謀反を起こし、景虎の栃尾城にも近辺の豪族が攻め寄せましたが、景虎はこれを鎮圧しました。この戦いは栃尾城の戦いといわれ、景虎の初陣となりました。


・1548年:
守護代で力不足だった晴景の代わりに景虎を擁立しようとする動きが活発化し、さらに反対派との対立が起こりましたが、主君である上杉定実の調停により景虎が晴怪我の養子となり、晴景は隠居し、景虎が19歳という若さで家督を継ぎました。


・1552年1月:
関東管領の上杉憲政が関東の雄、北条氏康に攻められ、居城だった平井城を脱し、景虎を頼り越後国に逃亡しました。


・1553年:
東信濃の支配権をえる為に武田信玄と川中島で戦いました。
その後1564年までの間に計5回戦い、勝敗つかずに終わりました。
念願だった上洛を果たし、当時の後奈良天皇及び13代室町幕府将軍足利義輝に拝謁しました。


・1556年:
家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停に心身が疲れ果ててしまった事を理由に突然出家・隠居する事を宣言して高野山に向かったものの、家臣の説得で最終的には出家を断念しました。


・1561年:
北条氏康の居城である小田原城を中心とする書状を包囲し、攻撃を開始しました。
山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名前を上杉政虎と改めました。
第四回川中島の戦い。武田信玄と一騎打ちを行ったと言われています。


・1568年:
この頃から、次第に越中国へ出兵する事が多くなります。


・1569年1月:
北条氏康と和睦し、同盟を結びました。


・1577年11月:
織田信長の家臣、柴田勝家を手取川の戦いで破りました。


・1578年3月9日:
遠征の準備中の春日山城内の厠で倒れ、その4日後に死去しました。
享年49歳でした。

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上杉謙信の年表を見ると、戦いばかりしているという印象を持たれる方もいるかもしれません。謙信は戦の名人で、その勝率は90%を越えていたと言われています。

中でも、武田信玄との間で行われた川中島の戦いは有名ですね。何かと比較されるこの2人ですが、このページでももう少し詳しく見ていきましょう。

上杉謙信と武田信玄の関係は?お互いをどう思っていたの?


上杉謙信と武田信玄の関係と言えば、5度にわたる川中島の戦いが思い浮かぶと思います。戦いの中で、この2人は一騎打ちをしたと言われてますが、後世の創作だという説も否定できません。

仮に一騎打ちが本当だとしても、謙信と信玄が直接対面した事はありません。では、上杉謙信は武田信玄の事をどう思っていたのでしょうか。

実は、数多くの戦いを通して、謙信と信玄の間には友情のようなものが生まれていたと推測されていています。その代表例が「敵に塩を送る」の故事でしょう。信玄の領地である甲斐国は内陸国である為に、塩が取れないので他国から仕入れる以外ありませんでしたが、同盟国であった今川氏真との関係悪化により塩の仕入れがストップされた事がありました。

この際の氏真の行為を謙信は卑怯な行為と批判し、信玄に塩を送ったという説が残されています。実は、このエピソードは後世の創作といわれていますが、謙信が塩を止めたという記録は残っていないのも事実です。逸話が広まる土壌のようなものはあったのでしょう。

更に、信玄が死去した際には「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と号泣したとされています。また、家臣から後を継いだ武田勝頼を攻めるように進言された際には「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と述べ退けているともいわれています。
一方の信玄も、勝頼に対して「謙信は義理堅い人物だから、自分の死に乗じて攻めてくる事はない」と言い残しており、謙信の死後、後を継いだ上杉景勝と勝頼は同盟を結んでいる程です。

その一方で、謙信は信玄を嫌っていたとも言われています。家督を継ぐ際に父、信虎を追放したり、領土を拡大するためには謀略も駆使する事をいとわなかった信玄のやり方を、謙信は苦々しく思っていたのだとか。一方の謙信は義理堅い人物として当時から知られていましたが、こうしたやり方は信玄からすると非効率的なものに映っていたかもしれませんね。

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この記事のまとめ


上杉謙信がどんな人だったのかを、年表や武田信玄との関係を交えながらご紹介しました。

謙信の生涯は、守護代の長尾家として、そして関東管領の上杉家として数多くの戦いに明け暮れ、それに加えて多くの家臣や豪族の謀反を受けて戦い続けてきた一生だとも言えます。また、義に篤く、多くの武将からの援軍申請に応えていったという事も、謙信が常に戦い続けていた理由と言えるでしょう。


なお、以下の記事では上杉謙信の強さの真相について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:上杉謙信は戦国最強?実際の強さは?織田信長と戦っていたら?