江戸幕府を開き、その後250年の長きに渡る徳川の世を作り上げた徳川家康。
その家康の実の父とされているのが、戦国武将・松平広忠です。
一体どのような人物だったのでしょうか?
その一方で・・・
実はもう一人「徳川家康の父親」ではないかと噂されている大物がいるのです!
それは、誰もが知っているあのお方…
戦においては最強とまで謳われた武田信玄その人です!
その真意とは如何に!?
徳川家康の実の父親は岡崎城主・松平広忠とは?
徳川家康の実父である松平広忠。
息子があまりに有名過ぎてなかなか表には名前が出てこないこの方ですが、実はとっても苦労をした人でした・・・。
その苦難の始まりは、実はお父さん(つまり家康の祖父)である松平清康にありました。
広忠の父・松平清康は、三河の国を統一したとされるちょっとした有名人で、また織田信長の父である織田信秀を恐れさせる程の人物でした。
三河国は当時、今川家と織田家に挟まれており常に緊迫した状態にありました。
そんな順風満帆な松平家の長男として生まれた広忠でしたが、1535年に父・清康が家臣により暗殺されたことで、その後の人生が大きく変わってしまいます。
清康の暗殺がこれ幸いと、お隣の尾張の織田信秀が岡崎城を攻撃します。
何とかこれを凌いだ松平家でしたが、まだ十歳の広忠では松平家をまとめ上げることは難しかったと考えられます。
そしてこの混乱に乗じて、もとより松平家の乗っ取りを画策していた大叔父の松平信定に騙された広忠は三河国を追われてしまいます…
しかしその後、広忠は今川氏の計らいで無事に再び三河国に復帰。
その後緒川城主・水野忠政の娘である於大の方と結婚し長男の竹千代が誕生!
のちの徳川家康ですね。
しかし、そんな喜びもつかの間。
妻の実家である水野家が織田家に寝返ったために、広忠は1544年に於大の方を離縁する事に。
広忠は今川家に助けを乞い、あの本多忠勝の父親、本多忠高の奮戦もあって織田信秀との小豆坂の戦いに勝利します。
※参照:本多忠勝の父親「本多忠高」はどのような武将だったのか?
その見返りとして、広忠はまだ幼い竹千代を、今川家に人質として差し出すことになります。
しかしその道中、織田家の家臣が竹千代を誘拐し、大切な息子が今度は織田家の人質に…
1つ間違えば松平家が滅びかねない状態の中、広忠は息子の命を見捨ててでも今川軍として織田家と戦うことを決意します。
そうしなければもう松平家を守ることができなかったからです…
本当に松平家を必死に守ろうとしたんですね…
なんせ世は戦国。我が子でも人質にとられた時点でその命は相手方のものだと覚悟をしていたのだとか…
そして1549年。
織田家の家臣によって、広忠も父・清康と同じく暗殺され(病死説もあり)24歳という若さでその生涯の幕を閉じました。
その時使われた刀が、時を経て父の暗殺時にも使われた妖刀村正であったことから、この刀は「徳川家に仇なすもの」と呼ばれる事があります。
松平広忠の評価は凡庸、あるいは愚将であったと言われる事が多いようです。
しかし、織田家に近い妻を離縁し、また幼い竹千代が織田家に人質に取られてたとしても今川家に仕えた広忠の判断があったからこそ、松平家はかろうじて滅亡を免れる事ができました。
この決断がなければ、後の江戸幕府はなく、また日本の歴史も変わっていた事でしょう…。
武田信玄が徳川家康の「父」と言われる理由とは?
徳川家康の実の父親は言うまでもなく松平広忠なのですが、実は最近になって、まことしやかに囁かれている「ある噂」があります…
それは、徳川家康の父親は実は武田信玄だった説です!
徳川家康と武田信玄と言えばあの三方ヶ原の戦いが有名ですよね?
信濃侵攻を展開していた信玄が上杉謙信との戦いなどを経て、今度は家康と共同で今川領である駿河を落とそうとしましたが、その間に起こった桶狭間の合戦や同盟国であった北条氏との決別などにより信玄は最終的に徳川領である三河国に攻め入ることになります。
その戦いにおいて徳川軍は惨敗、圧倒的な武田勢の強さに家康は馬上で脱糞して逃げたと言われています。
※参照:三方ヶ原の戦いを簡単に解説。徳川家康の敗因とは?
ではなぜ、本来なら憎むべき武田信玄に対して家康のこんな説が浮上したのでしょう?
最大の理由は、家康の母である於大の方が一時期、武田信玄の側室となっていたとの説です。
ただこれははっきりと記述が残っているわけではなく、家康の母には空白の数年間というのがあり、その同時期に信玄が家康の母ともとれる人物を側室として迎えたらしいとの説があり、そこから派生したものと思われます。
信玄が建立した甲斐善光寺には、家康の母が家康を授かった時に祈願していた念持仏があり、さらには信玄の位牌と一緒に家康の位牌も収められています。
次に挙げられるのが、家康が武田家を再興しようと尽力したことです。
こんな優れた武将の家柄を途絶えさせるのは何とも惜しいと考えた家康は、五男の信吉に武田の姓を名乗らせ武田家を再興させた事があります。
この家康の行動が「いくら何でも、よそ様のお家存亡のために自らの子供をあげるか!?」という疑問につながり、そこから「実は家康が信玄の息子だからここまでできるのでは?」となったようです。
この他にも、家康の遺体が葬られているところがその昔信玄が城を建てたとされる場所であったり、家康が亡くなった際に建てられた世良田東照宮本殿の梁には、徳川家の葵紋を支えるように武田信玄を象徴する花菱が描かれていたという説があるなど、家康と武田信玄の関係を示すエピソードは少なからずあります。
また、これは何とも言い難いですが、人相や筆跡が似ているという人もいます。
とは言え、「信玄=家康の実父説」はどれも信憑性は乏しく、また諸説あるため空想の域を出ないというのが結論です。
ただ、先の三方ヶ原の戦いで惨敗した家康は、その雄姿を見て恐怖と一緒に尊敬の念を抱いたとも言われています。
この戦いで家康が信玄から学んだことは多く、この一件がなければその後の家康の活躍はなかったかもしれないとも…
実際、信玄の死後、彼の死を喜ぶ家臣たちに家康が「信玄公の死を喜んではいけない。彼はこの徳川家にいろんな大切なことを教えてくれた偉大なお方だったのだ。悲しむどころか喪に服すべきだろう」と言ったとも伝えられています。
そういった意味で、信玄を「天下人家康の父」であったとする見方もあります。
この記事のまとめ
徳川家康の実の父と言われる松平広忠は、松平家存続を守るために奔走した人物でした。凡将という評価も少なからずありますが、息子を織田家に人質としてとられても、毅然と武将としての本懐を遂げた立派な武将だったと思います。
また、武田信玄が家康の実父であるという説もあり、何かしらの論拠も様々あるようです。どの説もなるほど~と納得はしてしまいますが、やはりどれも見方によっては家康が信玄を尊敬していたが故の後説に過ぎないのではないかとも思えます。
松平家を必死に守り抜こうとした松平広忠、家康に武将の生き様を叩き込んだ武田信玄。
どちらも家康にとっては「父」であったのかもしれませんね。
ただ天下統一を完成させた徳川家康が、戦国最強とまで言われる武田信玄の息子であったとするならばこれほど面白いことはないですよね!
実際、織田信長が武田家を滅ぼした際、家康が武田家の家臣を多数召し抱えたのは事実です。その多くが徳川四天王の1人である井伊直政に仕えており「井伊の赤備え」と呼ばれて活躍したのですが、その詳細について以下の記事で解説しているので、一度ご覧になってみて下さい。
※参照:赤備えとは?率いた武田信玄の家臣について!